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相田みつをという書家詩人がいる。彼の詩を書いた「トイレ用日めくり」をもらったので、その用途通りに掛けておいたら、トイレに入った友人が「こんな所に、なんいう事を! 私、この人のファンなのに・・・」と憤慨していた。 ダンボール事件。「ちゃんと育てられないのは、若すぎるからだ」と、ワイドショー
も繰り返す。関係者への強引なインタビュー。画面には『もう大丈夫だと言っていたのに・・・・・と、声を詰まらせる祖母(42歳)』というコメントが流れる。 「育てたように、子は育つ」のは分かる。しかし“育てる”のは誰? |
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「悪い子」よりは、「いい子」がいい。「悪いこと」する子は「悪い子」なんだか ら、どうしたって許してはいけない・・・。 といって、タンスの引き出しをあけて中を引っぱり出した3歳の幼女は、段ボール箱 の中に閉じこめられ、「親にウソをついた」5年生の少年は、ベランダに裸で縛り付けられた。そして、死んだ。 「育てたように子は育つ」のだから、育てる「親」の責任は重い。だからこそ、 「親」は「あんたは悪い子だから、その悪いところを直さなきゃ許してあげない」と いう。いわれた子どもは、自分の「悪さ」を認めさせられ、「しつけ」られる。 「しつけ」は確かに必要だ。しかし、彼らの、子どもたちがしていることは、本当に 「悪いこと」なんだろうか。まわりの大人は、子どもが死んだあとでいう。「そんなことは、子どもなら普通のことなんだから、そんなにまでしなくてもよかったのに」 と。 けれど、「しつけの悪い子ども」をみて、まわりの大人はそういってくれるのだろうか。ちゃんとしつけられない親(特に母親)を責めてはいなのだろうか。子どもを 「ちゃんといい子に育てる」のが、親の務めなのだから、という言葉で。 「いい子」でなければいけない、「いい親」でなくてはいけない、の大合唱が聞こえる、20世紀末である。 |
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・・・というタイトルを目にして、往年の人気テレビ番組を思い出す人は、もうかなりの熟年層。バラエティ番組のハシリで、同じテーマを、「よい子の場合・わるい子の場合・ふつうの子の場合」と演じ分けるコント。その成り行きに、思わず納得してしまうのは、「よい子なら、必ずこうするはず」というパターン化された思い込みが、しっかりと根をはっているからだろう。 日本人は、とかく“分類”が好きだと言われる。ホトトギスの句で象徴されるように、「信長型」 「秀吉型」 「家康型」と単純に分類してしまうのも、日本人ならではの発想だと書いていたのは、誰だったか。 ホトトギスは、鳴くものだという前提があるからこそ、鳴けない場合には“なぐさめ”が欲しくなる。もしくは、鳴く代わりに、別の何かで自己表現しなければならなくなる。 鳴くもよし 鳴かぬのもよし ホトトギス |
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年末年始用に最近流れているCM。すき焼き用の肉を買いに、肉屋の店頭にやってきた家族。どのランクの肉にするのか迷う父。「お父さん、決めてよ」といわれて、父は、「大決心」して、おずおずと「特上」を指さす。すると、母が「せっかくなんだから、コレ!」と自信に満ちて「超特上」の肉を指さす。
そのとき、母に向かって言われるせりふが、これ。 「男らしい」というのは、「女らしい」「子どもらしい」「高校生らしい」などと同様に、「らしくある」というほめことばのようである。 三省堂の「新明解国語辞典」は、「男らしい」を「強さ・いさぎよさなど、いかにも男性特有の性質を持っている様子」であると説明する。「女らしい」は、「やさしさなど、いかにも女性特有の性質を持っている様子だ」とする。 「男は男らしく、女は女らしく」ということからすれば、「お母さん、男らしい!」 は、決してほめことばではない。が、「いさぎよく、自信に満ちて、決断する」様子は、「男らしい」わけで、それをなしとげた母は、賞賛される。(じゃあ、父は?) でも、男なら誰でも「強くて、いさぎよい」の? 「やさしい」男は、男として失格? 「娘らしく」「新妻らしく」「本家の嫁らしく」「母親らしく」・・・・「女らし
く」
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12月も半ばを過ぎ、いよいよ本家の嫁の季節。 ある年、それこそ長良橋からダイビングするくらいの意を決して、離縁覚悟で(離婚ではない)宣言した。「私、今年のお正月には、出かけようと思うから」 「ああ、そう」 「海の上のピアニスト」という映画がある。 「ここへ行きたい」から、船を降りる人もいる。しかし目的がなくても、とりあえず降りてみるのも悪くない。ひとまず港に腰をおろして、あたりを眺めてみる。それからおにぎりを食べて、昼寝して、ゆっくりゆっくり考えればいい。 |