12月17日 

育てたように、子は育つ(カナコ)


 

 

相田みつをという書家詩人がいる。彼の詩を書いた「トイレ用日めくり」をもらったので、その用途通りに掛けておいたら、トイレに入った友人が「こんな所に、なんいう事を! 私、この人のファンなのに・・・」と憤慨していた。
その日めくりに「育てたように,子は育つ」という言葉がある。ということは、「育たなかったのは、そう育てなかったから」ということか。

ダンボール事件。「ちゃんと育てられないのは、若すぎるからだ」と、ワイドショー も繰り返す。関係者への強引なインタビュー。画面には『もう大丈夫だと言っていたのに・・・・・と、声を詰まらせる祖母(42歳)』というコメントが流れる。
評論家なる人たちが、分かったように解説する。「42歳でおばあちゃんですか。この人も若くして母になったんですね。だから、依織ちゃんの母親も、ちゃんとした育て方をされていなかったのでしょうね。」

「育てたように、子は育つ」のは分かる。しかし“育てる”のは誰?
ちまたの評論家の言うように、この主語に「母親」だけが入るとするなら、私は降りる。(いまさら私が降りても、世の中には何の影響もないのが、ややオモシロクナイ けれど)
しかし、あちらでもこちらでも、女たちが降り始めた結果が、『出生率1、.3 4』。
たまには右下がりのグラフというのも小気味良い。

 

 

 

 

 

12月18日 
いい子悪い子 (カノコ)

 

 

「悪い子」よりは、「いい子」がいい。「悪いこと」する子は「悪い子」なんだか ら、どうしたって許してはいけない・・・。 といって、タンスの引き出しをあけて中を引っぱり出した3歳の幼女は、段ボール箱 の中に閉じこめられ、「親にウソをついた」5年生の少年は、ベランダに裸で縛り付けられた。そして、死んだ。

「育てたように子は育つ」のだから、育てる「親」の責任は重い。だからこそ、 「親」は「あんたは悪い子だから、その悪いところを直さなきゃ許してあげない」と いう。いわれた子どもは、自分の「悪さ」を認めさせられ、「しつけ」られる。

「しつけ」は確かに必要だ。しかし、彼らの、子どもたちがしていることは、本当に 「悪いこと」なんだろうか。まわりの大人は、子どもが死んだあとでいう。「そんなことは、子どもなら普通のことなんだから、そんなにまでしなくてもよかったのに」 と。

けれど、「しつけの悪い子ども」をみて、まわりの大人はそういってくれるのだろうか。ちゃんとしつけられない親(特に母親)を責めてはいなのだろうか。子どもを 「ちゃんといい子に育てる」のが、親の務めなのだから、という言葉で。

「いい子」でなければいけない、「いい親」でなくてはいけない、の大合唱が聞こえる、20世紀末である。

 

 

 

 

12月19日 
よい子・わるい子・ふつうの子」(カナコ)

 

 

・・・というタイトルを目にして、往年の人気テレビ番組を思い出す人は、もうかなりの熟年層。バラエティ番組のハシリで、同じテーマを、「よい子の場合・わるい子の場合・ふつうの子の場合」と演じ分けるコント。その成り行きに、思わず納得してしまうのは、「よい子なら、必ずこうするはず」というパターン化された思い込みが、しっかりと根をはっているからだろう。

日本人は、とかく“分類”が好きだと言われる。ホトトギスの句で象徴されるように、「信長型」 「秀吉型」 「家康型」と単純に分類してしまうのも、日本人ならではの発想だと書いていたのは、誰だったか。
しかし、泣かないホトトギスに対してどうするかは、人によってさまざま。
  鳴かぬなら 踊ってくれよ ホトトギス
  鳴かぬなら テープでいいよ ホトトギス
  鳴かぬなら 休んでおいでよ ホトトギス
  鳴かぬなら 酒でも呑むかい ホトトギス
  鳴かぬなら 抱いてあげよう ホトトギス
  鳴かぬなら 鳴かなくていいよ ホトトギス
  鳴かぬなら 私が鳴くから ホトトギス
「鳴かないホトトギスを前にして、あなたならどうする?」 という問いに、こんな替歌ならぬ替句が並ぶと、ホッとするという人が多い。「鳴きたくなかったら、鳴かなくったっていいんだよ」 「鳴けなくったって、かまわないんだよ」と、なぐさめられる気がするという。ホトトギスらしさは、何も“鳴くこと”だけではないはず・・・ と。
  でも、そうなのかな? ホトトギスをホトトギスとして“ひとくくり”にして、本来鳴くものだという思い込みがあることに、変わりはないような気がするのだが。

  ホトトギスは、鳴くものだという前提があるからこそ、鳴けない場合には“なぐさめ”が欲しくなる。もしくは、鳴く代わりに、別の何かで自己表現しなければならなくなる。
「子供」も、「子供」というひとくくりにしてしまうから、つい、「子供らしさ」を追いつづけてしまうのかも・・・。

鳴くもよし 鳴かぬのもよし ホトトギス

 

 

 

 

12月20日 
「お母さん、男らしい」 (カノコ)

 

 

 年末年始用に最近流れているCM。すき焼き用の肉を買いに、肉屋の店頭にやってきた家族。どのランクの肉にするのか迷う父。「お父さん、決めてよ」といわれて、父は、「大決心」して、おずおずと「特上」を指さす。すると、母が「せっかくなんだから、コレ!」と自信に満ちて「超特上」の肉を指さす。 そのとき、母に向かって言われるせりふが、これ。
「お母さん、男らしい!」
拍手でたたえられた母は、大変満足そうに笑っている。

「男らしい」というのは、「女らしい」「子どもらしい」「高校生らしい」などと同様に、「らしくある」というほめことばのようである。 三省堂の「新明解国語辞典」は、「男らしい」を「強さ・いさぎよさなど、いかにも男性特有の性質を持っている様子」であると説明する。「女らしい」は、「やさしさなど、いかにも女性特有の性質を持っている様子だ」とする。

「男は男らしく、女は女らしく」ということからすれば、「お母さん、男らしい!」 は、決してほめことばではない。が、「いさぎよく、自信に満ちて、決断する」様子は、「男らしい」わけで、それをなしとげた母は、賞賛される。(じゃあ、父は?)

でも、男なら誰でも「強くて、いさぎよい」の?
女なら誰でも「やさしい」の?

「やさしい」男は、男として失格?
「強くて、いさぎよい」女は、女じゃないの?

「娘らしく」「新妻らしく」「本家の嫁らしく」「母親らしく」・・・・「女らし く」
じゃあ、「私らしい私」はどこにいる?

 

 

 

 

 

12月21日 
「本家の嫁」 (カナコ)

 

 

12月も半ばを過ぎ、いよいよ本家の嫁の季節。
お正月に親戚一同が集まる時には、「本家の嫁らしく」、体は動かすけれど、口は動かさない。10人分の湯呑みは5個づつ2度に分けて、廊下を小走りに往復して、「いかに、いそいそしているか」を演出する。
・・・・・ということを、何年繰り返しただろうか。「何で私だけが!」と、眉間に 3本シワ寄せながら。

ある年、それこそ長良橋からダイビングするくらいの意を決して、離縁覚悟で(離婚ではない)宣言した。「私、今年のお正月には、出かけようと思うから」 「ああ、そう」
拍子抜けがした。「らしさ」のバリアは、周りではなく、自分で作っていただけだったのか。
・・・・・しかし、出かけると言っても、どこへいく?

「海の上のピアニスト」という映画がある。
豪華客船に捨てられた赤ん坊が、その中で育ち、ピアノの才能を発揮して、船のサロンで人気を得る。27歳の時恋をした彼は、恋人を追って、生まれて初めてタラップを降りる決意をする。しかしとうとう、最後の一段を降り切ることができなかった。その後、その船が廃船と決まって、明日は爆破されるという日、どうしても船を下りない彼を、友人が説得に行く。
そこで彼が言う言葉。「ピアノは鍵盤が88しかないから、その中で自由に指が動かせる。しかし鍵盤が果てしなく並んでいたら、弾けやしない。それと同じで、船の外の道は、限りなく広がっていた。そこで僕は、選ぶ事などできない・・・」

「ここへ行きたい」から、船を降りる人もいる。しかし目的がなくても、とりあえず降りてみるのも悪くない。ひとまず港に腰をおろして、あたりを眺めてみる。それからおにぎりを食べて、昼寝して、ゆっくりゆっくり考えればいい。
道草も回り道も、「陸上」だからこそできること・・・。