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介護問題に造詣の深い春日キスヨさんの本(『家族の条件』岩波現代文庫)にこんなことが書いてあった。 あるがままではダメ、あるべき姿に一歩でも近づくために、カナコさんは「植木鉢にも頭を下げよ」と教えられ、「一瞬たりとも休むことなくくるくる立ち働かなきゃ」 と思ったのだろう。それは、「新嫁さん」「本家の嫁」の「あるべき姿」だから。 考えてみると、特に女性は、小さいときからまわりから「あるべき姿」を示され続け ている。 娘らしく、妻らしく、母らしく・・・そして女らしく。 「滅私奉公」で、「女らしさの規範」にがんばって、がんばって、合わせ続けてウン十
年。 |
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先日、落合恵子氏の講演の後、もっと語り合いたいという女性たちが集まった席で、こんなつぶやきが聞かれた。 ここにいるみんなは、“ちゃんと”結婚してるのだろうか。親の介護を妻に押し 付けたり、子育てを放って自分の生活しか考えていない夫を、見限ったりはしていな
いのだろうか。子供と心がすれ違って、焦りやどうにもならない虚しさを感じたりは していないのだろうか。 落合氏の小説に「偶然の家族」という作品がある。色々な事情で血縁の家族を持たない人たちが、個を大切にしながら共に暮らしていく中で、父親のない子を「育てて」いく話である。 今までの私たちは、あまりにも血縁家族の存在のみを重視してきたことで、それ以外の生き方を排除して来たのではないだろうか。
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昨夜、「サザエさん」を見ていたら、「大掃除」のマンガをやっていた。 年末の大掃除。あなたの家ではどのように行いましたか? しかし、サザエさんの家のように、「年末大掃除」は、家族全員で行うことが、当然だった時代があった。 「当然」だと思っていることのいくつかは、いつでも、どこでも「当然」のことではない。 |
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年の暮に、サザエさんちのような家族総出の大掃除日を 企画設営しなくなって久しい。おせち料理も、感動を覚えるというよりは、わずかに郷愁の思いで、ほんの一日分ほどを用意するだけ。 保温鍋に豆と水と調味料を入れ、煮立ったら蓋をして、さめるまで放っておく・・・ という方法も、昨年まで。 今年は、すでに柔らかく処理されてフリーズドライしたものを購入。あとは味をつけるだけ。時間は、従来の十分の一以下。これでも、れっきとしたを「手作り」 「手作り」という言葉が、しばしば女性たちを縛る。 「手作り」のおやつは、良い母のバロメーター。「手作り」のお惣菜は、妻の献身度。「手作り」のお弁当は、彼の心を獲得するのに最良の手段。手をかける時間は、 相手にかける愛情に比例する。 ・・・とするならば、コトコト煮豆時代に比べて、保温鍋期は愛情半分。フリーズドライに至っては、それこそ冷え切っているということか。 「手作り」は悪くない。しかし、それを言う時、かつてはそれ以外に方法がなかったことを忘れてはいないだろうか。 歴史は昔に戻らない。社会の変革に目を向けないで、郷愁だけで愛情をとやかく測るのは無意味。社会のあり方が変われば、夫婦や親子や、それ以外の人と人との関わり方も変わるはず。新しい愛情表現が創られてくる。 「元旦に、コトコト煮豆のお重が出てくる所は、作った人が、そんな方法で作りた かったからだけなのよ」と言いながら、フリーズドライに味付けをしていたら、「愛情はいらんから、“そんな方法で作りたい”人と一緒に暮らしたい」という家人の声。 |