12月22日

「ガンバレ!」 (カノコ)

 

 

介護問題に造詣の深い春日キスヨさんの本(『家族の条件』岩波現代文庫)にこんなことが書いてあった。
「ガンバレというその言葉は、しばしば、苦悩の中にある人をうちのめす言葉として作用する。なぜなら、その言葉には、いまある”あるがままの”あなたではダメ、いまあるあなたを超えて、”あるべき”あなたになるべしという要請が、多少なりとも含まれているからである。その人がその人そのもの”である”ことを否定し、”(・ ・・・に)なる” ことを奨励する言葉、業績的価値を煮つめたような言葉、それがガンバレという言葉だからである。」

あるがままではダメ、あるべき姿に一歩でも近づくために、カナコさんは「植木鉢にも頭を下げよ」と教えられ、「一瞬たりとも休むことなくくるくる立ち働かなきゃ」 と思ったのだろう。それは、「新嫁さん」「本家の嫁」の「あるべき姿」だから。

考えてみると、特に女性は、小さいときからまわりから「あるべき姿」を示され続け ている。
「女の子らしくしなさい」
「若い娘が、そんな言葉遣いをして!」
「早く、お嫁さんにならなきゃね」
「まだ、できないの?」 「子どもを持って女は一人前だもんねえ」
「嫁のくせに、親の面倒を見ない、っていうのよ」
「本家の嫁さん、なんやらいっつも出あるいとるねえ」
「あれでは姑さん気の毒やわ」
「あの人、いい年して、派手な服着てみえるねえ」
「忙しいで、孫の守しないなんて、勝手な姑さんやねえ」
「一回ぐらい、夫の言うことを『はい』って素直に聞けんのか!」

娘らしく、妻らしく、母らしく・・・そして女らしく。 「滅私奉公」で、「女らしさの規範」にがんばって、がんばって、合わせ続けてウン十 年。
「そんなのイヤ!」という小さなつぶやきでさえ許されない、なんて信じられないことが、まだそこここにある。 あと10日で21世紀。

 

 

 

 

 

12月23日
「あるべき姿」  (カナコ)

 

先日、落合恵子氏の講演の後、もっと語り合いたいという女性たちが集まった席で、こんなつぶやきが聞かれた。
「とってもいい話だったけど、やっぱりシングルの人は、私たちとは違うわよね」 「そうね、子供を育てた事もないのに、家族のホントのことは分からないわよ」 「今度は、ちゃんと結婚して、子育ても介護もした人の話を聞きたいよね」
“ちゃんと結婚する”って、どんなこと?
そういう人の話を聞いて、それからどうするの?

ここにいるみんなは、“ちゃんと”結婚してるのだろうか。親の介護を妻に押し 付けたり、子育てを放って自分の生活しか考えていない夫を、見限ったりはしていな いのだろうか。子供と心がすれ違って、焦りやどうにもならない虚しさを感じたりは していないのだろうか。
それらこそが「人生体験」だというなら、その体験は、血縁のみでしか得られないものなのだろうか。

落合氏の小説に「偶然の家族」という作品がある。色々な事情で血縁の家族を持たない人たちが、個を大切にしながら共に暮らしていく中で、父親のない子を「育てて」いく話である。
血縁の家族であっても、その出会いは偶然で、親も子も相手を選べない。結婚したら、そして子供が生まれたら、自動的に「家族」になるのではなくて、そこからがスタート。
お互いの意志と思いやりとで、共に生きようとする願いを持ちつづけて初めて、「家族」となれるもの。
血縁だけが家族の絆ではない。血縁家族を持つことだけが、人としての「あるべき姿」ではない。

今までの私たちは、あまりにも血縁家族の存在のみを重視してきたことで、それ以外の生き方を排除して来たのではないだろうか。
「父」と「母」と「子供」のカードが全部そろって初めて「上がり」になるのは、お 正月に楽しむ人生ゲームだけでいい。

 

 

 

 

 

 

12月25日
「大掃除」 (カノコ)

 

 

昨夜、「サザエさん」を見ていたら、「大掃除」のマンガをやっていた。
「今度の日曜は、大掃除だ」と年末のある日、波平さんが決める。
日曜日には、家族総出の大掃除。畳を上げて、下の新聞紙を取り替えて、という大々的なもの。
ノリスケさんの家も「大掃除」だが、彼は掃除に参加していない。掃除はタイコさんが行い、彼はイクラちゃんを連れて家を出ていく。「じゃましないこと」と「子守」 が彼の役目らしい。

年末の大掃除。あなたの家ではどのように行いましたか?
誰が、掃除をしましたか?
もしかしたら、だんだんイライラしながら、「主婦」が一人で、しゃかりきになってやっていたりして。
「掃除」は当然「主婦」の役割だから。せいぜい子どもに「自分の部屋くらい片づけなさい」と怒鳴って。

しかし、サザエさんの家のように、「年末大掃除」は、家族全員で行うことが、当然だった時代があった。
男たちも「手伝い」ではなく、「当事者」として、指図されるのではなく、自分がすることをこなしていた時代。
それは、いったい、いつ頃までだったんだろう。
「男は仕事、女は家庭」という「性別役割分担」が当然のように受け取られるようになったのは、「高度成長期」以降だという。 とすると、玄関のそばに、ダイヤル式の電話が一台だけ、電子レンジもなさそうな磯野家の設定は、まだ、「性別役割分業」が固定化される、その少し前なのかもしれない。
フネさん・サザエさんとも「専業主婦」でありながら、彼女たちは、まだ、「大掃 除」は女の役割とは考えていない。
波平さんもマスオさんもカツオ君も、頭に手ぬぐいを巻いて、「大掃除」をする。そ れが、普通のことであった時代は、たかだか30年くらい前のことだ。 が、男たちが「大掃除」から「排除」されるきざしも、ノリスケさんのところのよう に、すでにある。
男たちが家庭で「大掃除」する暇もないほど、「会社」に縛り付けられる時代も、そこまで迫ってきている。

「当然」だと思っていることのいくつかは、いつでも、どこでも「当然」のことではない。
そんなことが次々に明らかになった20世紀末だったような気がする。 自分の中の、いろんなとらわれも「大掃除」して、整理して、考えてみたい20世紀 最後の年の瀬である。
「カノコ」分のリレーエッセイは、年内これで終わります。 次にお目にかかるのは、2001年! みなさま、よいお年をお迎えください。

 

 

 

 

 

12月27日
「手作り」 (カナコ)

 

 

年の暮に、サザエさんちのような家族総出の大掃除日を 企画設営しなくなって久しい。おせち料理も、感動を覚えるというよりは、わずかに郷愁の思いで、ほんの一日分ほどを用意するだけ。

前日から水に浸した黒豆を、朝から火にかけ、つききりで灰汁を取ったあと、コトコ ト弱火にかけながら、その間、何度も蓋を取り、状態をチェックする・・・ような煮方は、もう何年も前にやめた。
保温鍋に豆と水と調味料を入れ、煮立ったら蓋をして、さめるまで放っておく・・・ という方法も、昨年まで。
今年は、すでに柔らかく処理されてフリーズドライしたものを購入。あとは味をつけるだけ。時間は、従来の十分の一以下。これでも、れっきとしたを「手作り」

「手作り」という言葉が、しばしば女性たちを縛る。
「手作り」のおやつは、良い母のバロメーター。「手作り」のお惣菜は、妻の献身度。「手作り」のお弁当は、彼の心を獲得するのに最良の手段。手をかける時間は、 相手にかける愛情に比例する。
・・・とするならば、コトコト煮豆時代に比べて、保温鍋期は愛情半分。フリーズドライに至っては、それこそ冷え切っているということか。

「手作り」は悪くない。しかし、それを言う時、かつてはそれ以外に方法がなかったことを忘れてはいないだろうか。
歴史は昔に戻らない。社会の変革に目を向けないで、郷愁だけで愛情をとやかく測るのは無意味。社会のあり方が変われば、夫婦や親子や、それ以外の人と人との関わり方も変わるはず。新しい愛情表現が創られてくる。

「元旦に、コトコト煮豆のお重が出てくる所は、作った人が、そんな方法で作りた かったからだけなのよ」と言いながら、フリーズドライに味付けをしていたら、「愛情はいらんから、“そんな方法で作りたい”人と一緒に暮らしたい」という家人の声。
私は、どんな方法でも“作ってくれる人”と一緒に暮らしたい・・・・・とつぶやき ながら、今年の「カナコ」分のエッセイも、これでおしまい。
みなさんも、よいお年を!