|
「20世紀に置いておきたい言葉」・・・「女の敵は女」 いろんなところで、いろんなことをやっている女たちが、反目したり、足を引っ 張り合ったりするのではなく、手をつなぎ合ってやっていくネットワークができたら、と考えはじめたのは1996年のことだった。 ”編んでほどいて、また編んで・・・・。女たちのネットワークはニットワークに似ている。友情もまた同じ。編んでほどいて、ほどいて編んで、より広く、そして
より深く。 そうだ、うまくいかなかったら、ほどいてしまえばいいんだ。そうして、また編み始めたらいい。 20世紀の終わりに、私たちが手に入れた「インターネット」の世界は、Webと呼ばれる。蜘蛛の巣にたとえられるそれは、まさに「ニットワーク」にふさわしい。
|
|
お正月だからといって、気象データが特別にすがすがしいわけで もないのに、空気の色が、どことなく違って見えるのがおもしろい。 幼い頃、元旦には近所のおばちゃんたちに必ず「いくつになったの?」と聞かれたものだ。「満3シャイで、数え5シャイ」と答えると、「どっちも言えてエライねえ」と誉められ、いい気分になっていたおぼろげな記憶がある。 仕切り直しのいい例が、年の初めの“初〇〇”。 さて、お正月。「初〇〇」の気合とともに、「今年こそは」と更なるステップ アップを願う。 「仕切り直し」は、ニットワークをほどいて編み直す程度の“思い”でいい。 紙ふうせんを、もう1度打ち上げる程度の“力”でいい。 長い人生だもの、そこで何度でも「仕切り直し」できるのだから。 ・・・・・と、テレビの中の『ハチマキ合宿受験生』たちにも伝えたい。 |
|
この手紙は、何も本人宛てとは限らず、「親から子に」「子から親に」「お世話になった人に」など、その時に「思いを届けたい人」なら誰でもよかった。新聞報道によると、そんな手紙がこの日、303万通が配達されたという。
残りの20余万通は、受取人死亡、または転居先不明。そして、差出人の希望で、配達をやめた分もかなりあったという。 「愛は、そのまま放置すれば、必ず枯れる」というのは、田辺聖子さんの言葉。こまめに水をやり、日にあて、草抜きをして、2人で手をかけ続けてやっと、生き長らえるものだ・・・と。 共に歩こうとする2人なら、16年先に込めた想いより、「今日」この時に、お互いのメッセーッジを伝え合わなければならないのかもしれない。 |
|
親子関係は、それぞれが「選んだ」関係ではない。たまたま 「親子」としてであってしまったのである。 夫婦という関係は、こまめに水をやり、日にあて、草抜きをして、2人で手をかけ続けてやっと、生き長らえるものだということを忘れ、放っておいても、そうあり続ける、と誤解してしまう。 確かに、平均寿命が60そこそこのころは、それでもどうにかなった。子どもを4, 5人生んで、育てて、母として、父として家庭の中で過ごしていれば、「お父さん」 「お母さん」という名の「夫婦」であれた。 しかし、少子化と高齢化である。子どもが成人して、家を出ていってしまってからの、二人の長い時間の中で、この「人為的」な関係を保つのは、なかなか難しいこと である。 「おばあちゃん」「おじいちゃん」という、「親子関係」にすり替える、ということ も難しい世の中である。 平成12年の国勢調査の速報が発表された。 人口は微増、世帯数は増加。つまり、核家族世帯・単身世帯が増加し続けている、ということである。 1世帯あたりの人数は、2.07人。10年前には、3.01人であった。全国一同居率の高いという山形県で3.30人。岐阜県は第6位で3.10人。 岐阜市が2.27人、大垣市2.98人、同居率の高いという可児市で3.15人。 4人を超えているのは輪之内町ぐらいである。 夫婦と子ども2人なら、合計4人。TVで繰り返しでてくる「家族像」は、もはや、 少数派になっている。 「家族」とはこういうものだ、という思いこみと、現実の姿の差が、くっきりと現れ てくる新世紀のような気がする。 |
|
ホームページ掲示板に、ミスコンに関する報告が載って いる。このようなミスコン廃止の潮流の中で、「応募したい女性がいるのに、その道を閉ざすのはいかがなものか」という反論も少なくない。 この評価に関して「美しさは個人の特性であるから、足の早さや 学力の程度と同様に、審査の対象であってもいいのではないか」という意見もある。
この類のコンテストが始まって以来、ミスコンの審査基準は、 あくまで男性の「眼」であったことは否めない。また、ミスに選ばれた女性たちの活動分野も、社会を動かしている男性がポルノチックな添え華を求める場でしかなかっ
たという歴史も事実である。 例えば、裸婦像は芸術だと言われる。確かに、流れるように美し い体型の像を見ていると、そんな気がしないでもない。しかし、ルーブル美術館でダビデ像を前にした時、「やはり裸婦像芸術論も、男性社会の神話にすぎない」と実感せざるをえなかった。 |