1月1日

「21世紀に・・・」 (カノコ)


 

 

「20世紀に置いておきたい言葉」・・・「女の敵は女」
「21世紀に持っていきたい言葉」・・・「いつの時代でも、女が女にやさしくあり 合わなくてはね。」(吉屋信子)

いろんなところで、いろんなことをやっている女たちが、反目したり、足を引っ 張り合ったりするのではなく、手をつなぎ合ってやっていくネットワークができたら、と考えはじめたのは1996年のことだった。
きっかけは、本の情報誌(Woman's EYE)で見た、落合恵子さんの言葉だ。

”編んでほどいて、また編んで・・・・。女たちのネットワークはニットワークに似ている。友情もまた同じ。編んでほどいて、ほどいて編んで、より広く、そして より深く。
敢えて、「女のニットワーク」とか「女の友情」と記さなければならないのは、古今 東西、映画に、小説に、好んで描かれた連帯や友情は、男同士のものであった。
男たちはちゃっかりと、いとも都合よく、嫉妬を女同士のものとし、友情を男同士のものとした。女の敵は女という、あのうんざりするような毒薬をばらまきながら。
しかし、女たちは密かにニットワークを広げてきた。炉端で、井戸端で、クッキーを焼きながら、編み物をしながら、キルトを作りながら。
時代が変わり、炉端やキッチンや井戸端から解放されてからも、女たちは、昼休みの屋上で、トイレットの小さな空間で、ニットワークと友情を深めてきた。
同性を信じることは、自らのセクシュアリティと存在そのものを、そして尊厳と誇りを信じることでもある。”

そうだ、うまくいかなかったら、ほどいてしまえばいいんだ。そうして、また編み始めたらいい。
いろんな人の、いろんな色の、いろんな太さの、いろんな材質の糸が、絡み合い、編み込まれたら、ひとりでは決してできないすてきな「ニットワーク」ができる・・ ・。

20世紀の終わりに、私たちが手に入れた「インターネット」の世界は、Webと呼ばれる。蜘蛛の巣にたとえられるそれは、まさに「ニットワーク」にふさわしい。
住んでいるところを超え、時間の制約を超え、年齢を超え、立場を超え、女たちがネットワークを作っていく場所として、ここほど適切な場所はないような気がする。
新しい世紀を、みなさんと迎えることができる喜びを感じながら
「あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。」

 

 

 

 

 

1月2日
「仕切り 直し」 (カナコ)

 

 

お正月だからといって、気象データが特別にすがすがしいわけで もないのに、空気の色が、どことなく違って見えるのがおもしろい。

幼い頃、元旦には近所のおばちゃんたちに必ず「いくつになったの?」と聞かれたものだ。「満3シャイで、数え5シャイ」と答えると、「どっちも言えてエライねえ」と誉められ、いい気分になっていたおぼろげな記憶がある。
「数え年」といって分かる人は、人生を半世紀近く生きてきた人。数え年とは、生まれた時点で既に1歳とみなし、年が明けると同時に新たに年を重ねる。だから、12月31日生まれのあかちゃんは、その日に1歳、そして翌日元旦には2歳になり、 「満2日。数え2歳」という摩訶不思議な現象が起きる。「正月は、冥土の旅の一里塚」と言われたのは、この習慣からきているのかもしれない。
現在数え年を使うのは、神仏祈願と、死んだ後の年忌くらいだが、この“正月に年をとる”というこの習慣には、「人生の仕切り直し」の感がある。

仕切り直しのいい例が、年の初めの“初〇〇”。
フジカラーのCMは、いつも意外性があって楽しいが、今年のお正月バージョンは、 「初日の出を撮りました」という店員に対して、樹木希林が「初日の入りを撮りまし た」というもの。“初日の入り”という発想の転換には、思わず笑ってしまう。
しかし、“日の入り”というのは盲点だった。元旦の“初日の出”を見るために、こぞって登山するなら、大晦日の“日の入りおさめ”を見るために、海へ出かけて行く 一団があってしかるべきなのに、誰もそちらには関心を向けない。
成人式にしろ結婚式にしろ、「何かの初め」を大々的に祝うのは、やはり仕切り直しに込める一途な思い。

さて、お正月。「初〇〇」の気合とともに、「今年こそは」と更なるステップ アップを願う。
しかし、人生という場での序列番付アップを幸せとする「仕切り直し」は、少々肩の荷が重い・・・と、気付き始めた人たちがいる。これからは男も女も、背負い続けてきた荷を下ろして、“一市民”としての生きたい・・・と。
ネットワークは平場の集い。そこに序列はない。

肩の力を抜いてみよう。
「仕切り直し」は、ニットワークをほどいて編み直す程度の“思い”でいい。
紙ふうせんを、もう1度打ち上げる程度の“力”でいい。
長い人生だもの、そこで何度でも「仕切り直し」できるのだから。
・・・・・と、テレビの中の『ハチマキ合宿受験生』たちにも伝えたい。

 

 

 

 

1月8日
「配達されない手紙」  (カナコ)

 


元旦に、娘2人に宛てて「ポストカプセル郵便」なるものが届 いた。差出人は、16年前の娘たち自身。
これは、1985年の科学万博会場で「21世紀のあなたに届ける夢の郵便」と名づけて販売されたポストカードで、つくば市の郵便局が16年間保管していたもの。
当時小学校2年生の娘のカードには、「この手紙が届く頃には、私は先生をしていると思います」と書いてあり、家族は爆笑。なぜなら彼女は今、高校教員。「シャレにもならない」「何の成長もしていない」と笑い転げる家族に、「先見の明・初志貫徹と言ってほしい」と抗議する娘。

この手紙は、何も本人宛てとは限らず、「親から子に」「子から親に」「お世話になった人に」など、その時に「思いを届けたい人」なら誰でもよかった。新聞報道によると、そんな手紙がこの日、303万通が配達されたという。 残りの20余万通は、受取人死亡、または転居先不明。そして、差出人の希望で、配達をやめた分もかなりあったという。
この「配達されない手紙」の背景が、妙に気になる。配達中止を申し出た影には、どんなドラマがあったのだろうか。万博会場を訪れた恋人同志が、永久(とわ)の愛を信じて、お互いに書き送ったものだったかもしれない。この熱い想いが16年持たないなどとは、夢にも思わないで・・・。

「愛は、そのまま放置すれば、必ず枯れる」というのは、田辺聖子さんの言葉。こまめに水をやり、日にあて、草抜きをして、2人で手をかけ続けてやっと、生き長らえるものだ・・・と。
恋人同志なら、まだ「会話」も「気遣い」もあるだろう。しかし夫婦になれば、それがゴールと考えてしまうのが日本の風潮。「女房は、言わなくても分かっていてくれ る」と単純に信じている夫も、そんな大きな誤解をさせたままでいる妻も、「水やり」を忘れているということか。

共に歩こうとする2人なら、16年先に込めた想いより、「今日」この時に、お互いのメッセーッジを伝え合わなければならないのかもしれない。

 

 

 

 

1月9日
「夫婦は二世」  (カノコ)

 

親子関係は、それぞれが「選んだ」関係ではない。たまたま 「親子」としてであってしまったのである。
それに対して、夫婦関係は、何らかの意志が働いてできあがった関係である。
人為的なものである。全く関係のない二人が、出会って、「夫婦」になった。そこで、昔の人は、「親子は一世 夫婦は二世」といったのだと思う。
親子は、この世にいるうちだけの関係。それに対して、夫婦は、現世から来世まで続く関係だ、というのだ。

その2種類の関係が、「家族」の中に存在しているために、どうしても思い違いが生じてくるのだろう。
夫婦という関係は、こまめに水をやり、日にあて、草抜きをして、2人で手をかけ続けてやっと、生き長らえるものだということを忘れ、放っておいても、そうあり続ける、と誤解してしまう。

確かに、平均寿命が60そこそこのころは、それでもどうにかなった。子どもを4, 5人生んで、育てて、母として、父として家庭の中で過ごしていれば、「お父さん」 「お母さん」という名の「夫婦」であれた。
しかし、少子化と高齢化である。子どもが成人して、家を出ていってしまってからの、二人の長い時間の中で、この「人為的」な関係を保つのは、なかなか難しいこと である。
「おばあちゃん」「おじいちゃん」という、「親子関係」にすり替える、ということ も難しい世の中である。

平成12年の国勢調査の速報が発表された。
人口は微増、世帯数は増加。つまり、核家族世帯・単身世帯が増加し続けている、ということである。
1世帯あたりの人数は、2.07人。10年前には、3.01人であった。全国一同居率の高いという山形県で3.30人。岐阜県は第6位で3.10人。
岐阜市が2.27人、大垣市2.98人、同居率の高いという可児市で3.15人。 4人を超えているのは輪之内町ぐらいである。
夫婦と子ども2人なら、合計4人。TVで繰り返しでてくる「家族像」は、もはや、 少数派になっている。
「家族」とはこういうものだ、という思いこみと、現実の姿の差が、くっきりと現れ てくる新世紀のような気がする。

 

 

 

 

1月10日
「ミスコンテスト考」  (カナコ)

 

ホームページ掲示板に、ミスコンに関する報告が載って いる。このようなミスコン廃止の潮流の中で、「応募したい女性がいるのに、その道を閉ざすのはいかがなものか」という反論も少なくない。
確かに、人は「見てもらいたい」という欲求を持っている。句集の自費出版しかり。 芸事の発表会しかり。だから、美しいプロポーションや容貌を、それが親から貰ったものにしろ、お金や努力をかけたものにしろ、ステージに立って「見てもらいたい」 と願う心境が分からないわけではない。それはそれでいい。
しかしコンテストとなると、やや状況が異なる。その評価とランク付けは、今まで何が基準となってきたのであろうか。

この評価に関して「美しさは個人の特性であるから、足の早さや 学力の程度と同様に、審査の対象であってもいいのではないか」という意見もある。
しかし本当にオリンピック選考会や学力試験と同種のものなのであろうか。

この類のコンテストが始まって以来、ミスコンの審査基準は、 あくまで男性の「眼」であったことは否めない。また、ミスに選ばれた女性たちの活動分野も、社会を動かしている男性がポルノチックな添え華を求める場でしかなかっ たという歴史も事実である。
そんな社会価値の中で、女性たちは自分自身を「男性の眼」で測ることに慣らされてきてしまったのではないか。

例えば、裸婦像は芸術だと言われる。確かに、流れるように美し い体型の像を見ていると、そんな気がしないでもない。しかし、ルーブル美術館でダビデ像を前にした時、「やはり裸婦像芸術論も、男性社会の神話にすぎない」と実感せざるをえなかった。
なぜなら、一介の素人としてダビデ像を鑑賞する私の眼は、「女体を見る男の眼」な らぬ「男体を見る女の眼」でしかなかったから…。