1月13日

『花嫁』と『結婚』と  (カノコ)


 

TVで、さかんに「結婚式場」のCMをやっている。そういえば、正月に横浜から帰省した子どもが、東京では「結婚式場」のCMなんか見たこと がない、といっていた。なんといっても「尾張の豪華な嫁入り」の伝統が、この地方には生きているのだろう。
TVに映し出されるのは、満面の笑みをたたえた「花嫁」である。どこかのCMのバックに流れる曲のタイトルを見て、なるほど、とうなずいてしまった。「あなたを愛す私を愛す」というのだ。歌詞が全部流れるわけではないので、本当のところ何を言っているのかはわからないのだが、「笑顔の花嫁」とともに見ると、それが、「あなたを愛す私を、(私は)愛す」と言っているように思われるのだ。
「結婚」をするのは、「花嫁」になるためである。そんな気を起こさせるCMの作り方である。「花嫁」こそ、あなたが「ヒロイン」になれるチャンス!!

しかし、「結婚」をしたがる人は、減り続けているのだという。
11日の朝日新聞の岐阜県版に、「負担増待ったなし」という記事が載っていた。その中で、「少子化に歯止めがかからない」という全国共通の悩みの原因として、「県は、要因の一つは晩婚化にあると見て、1999年度には、厚生省が少子化対策とし て交付した5000万円を使って独身男女に出会いの場所を提供した。・・・・だが、効果は未知数だ。」とある。
「少子化対策」というと、「子育て支援」が注目されるが、実際のところ、結婚した 1組の夫婦の生む子どもの数は、全国平均で2,2人程度で、ここ30年近くほとん ど変化していない。それなのに、なぜ生まれる子どもの数が減り続けるのか。厚生省等の調査でも明らかなように、「晩婚化」「非婚化」の勢いが止まらないからである。

どうして、結婚したがらないのか。様々な人が、様々な見解を発表しているが、私は、女たち(の何人か)が、「結婚」は「花嫁」になることだけではない、ということに気づいたせいではないか、と思っている。
そんなことは、あたりまえのことである。しかし、「結婚こそ女の生き甲斐」「寿退社こそあこがれ」という価値観しかなかった時代は、「花嫁」の後に続く「結婚」の実体について、彼女たちは、気づかないふりをしてこれた。
しかし、そうではない。結婚した女の肩には、「家事」「育児」「介護」そして「地 域のつきあい」がかかってくる。結婚退職しなければ、当然「仕事」だってある。 「仕事」は自分の問題である。けれど、「家事」「育児」「介護」そして「地域のつきあい」は、当然パートナーも一緒に担うべきものではないか。彼女たちは、まわりの結婚した女たち、そして何より自分の母親を見て、その実体に気づいてしまった。
なぜ、「私ばっかりが、大変な目をしなきゃならない」と思うとき、「結婚」に対し て「バラ色の夢」を抱けるか。

「花嫁人形」という歌がある(大正12年、蕗谷紅児作詞)。
”金襴緞子の 帯締めながら
 花嫁御寮は なぜ泣くのだろ” 
戦前の女たちは、この歌を同感を持って歌ったという。美しい花嫁衣装を着ながら、 なぜ「花嫁」は泣くのか。
それは、「結婚式」の次の日から(いや、当日から)待っている、厳しい「嫁」のつとめを知っていたからだ。しかし、「結婚」することしか、「生計の手段」がない女たちは、泣く泣く「嫁」にいったのである。
結婚以外の生計の手段を持った、現代の女たちは、「生活」のためには、結婚という手段を選びはしないのは当然である。

 

 

 

 

 

1月15日
気づいてしまった・・・   (カナコ)

 

お正月番組のウルルン滞在記で、アフリカの地雷で傷ついた子どもたちを、ドイツで治療するNGOを紹介していた。そこで治療を受ける女の子(12歳)の1年間の取材で、彼女はドイツに運ばれた当初、「早く帰って、子どもをた くさん産んで、いいお母さんになりたい」と繰り返していた。
その後アフリカに戻り、半年後に再度治療に来た時は、「先生になって、子供たちに字を教えたい」と夢を語った。しかし、さらに半年後、怪我も治ってアフリカで暮らしながら、「ドイツへ行きたい。そこで看護婦をしたい」と語る彼女の表情は暗かっ た。
ドイツを見る前は、彼女にとって「子どもを生んで、いいお母さんになる」という生き方以外にモデルはなかった。しかし、ドイツで文字を知ることの意味に気づき、行動を起こしたいと思った時、現在の自分の国では、自分の力だけではどうにもできな い壁が見えてしまったのだろう。

かつて奴隷制度の中で、奴隷たちの誉れは「自分が最高値で売買されること」だったという。彼らに、それ以外の選択肢はなかったから。
自分が「ある制度」そして「そんな制度を当然と見る社会」に呑み込まれていると、 それ以外の選択肢の存在が見えなくなる。そんな中で、「気づくこと」が幸せとは限 らないという声もある。しかし、だったら「気づかないこと」が幸せといえるのか。

日本にも「家」という制度がある。その「制度」から外れた生き方をすることは、容易ではない。結婚式にも、依然として「〇〇家」という言葉が幅を利かせる。
最近、「できちゃった結婚」が市民権を得てきたが、これは「制度」への反発ではない。どうしてもバラ色の夢を描けず躊躇していた「結婚」へ、自分自身を踏み切らせるきっかけとして「できちゃった」事実を作った(あるいは利用した)だけ。単に順序が入れ替わっただけで、実質的には「形にこだわる従来の結婚」と何ら変わりはな い。

日本では、ともかく形態・書式を調えることが結婚。だから、夫婦別姓でいるための事実婚は好奇の的だし、離婚の母はまだ許せても、未婚の母に向ける目は冷たい。そのため、日本の婚外子は1%以下。いかに「世間の目」が厳しいかということがよく 分かる。
法的にも社会的にも、婚姻届を出さないことが不利にならない欧米諸国では、半分近くが婚外子で、その数が50%を越す国も少なくない。それらの国の政府は、人々の暮らし方に合わせて、様々なカップルの在り方を認める方向で、法律を変えてきてい る。フランスのPACS法案しかり。
そんな欧米の生き方をすべて認めているわけではない。しかしこの情報化社会で、私たちはもはや「気づく」ことなしに暮らせなくなってしまった。

そして、一度「気づく」と、もう後戻りはできない・・・・・。

 

 

 

 

 

1月19日
問題は『嫁不足』   (カノコ)   

 

知事選候補者に対しての「言わせて」のコーナーに、飛騨のほうれん草農家の青年の声が載っていた。 「青年部としての悩みはやはり後継者、嫁不足です。まだまだ農業に対して『暗い』 イメージが残っているのが原因だと思う」というものだ。
結婚したいと思っても、「嫁」がいない、という悩みは、県下市町村に共通しているもので、特に変わった悩みではない。「少子化」の大きな原因が、「結婚しない人の増加」と言うことで、行政が率先して「嫁さがし」をしているところもあるほどだ。 「嫁さがし」という言葉が象徴しているように、「結婚したい男性」はいるが、相手となる女性がいない、というのがおおかたの姿である。

問題は、「嫁不足」「嫁さがし」というとらえ方自体にあるのではないだろうか。
「嫁」が、「息子の妻」を指す使い方は、中国にはない、日本独自のものである。一般的になったのは、江戸時代から。○○家に、「他所」から入ってくる女であり、彼女は、「跡継ぎ」を産むことと、労働力として期待される存在であった。跡継ぎを産まない女、働けない女は、「家」にとって不要なものであった。
「嫁」という言葉そのものに、いまだにその「期待」を持った響きがある。「家事」 「育児」「介護」という労働(無報酬の)を担うのが当然の存在として、「家」に必要な女。
それは、配偶者(パートナー)とはいえない。「伴侶」を求める女性が、「嫁」を求める男性と一緒にやっていきたいと思えないのは、当然ではないだろうか。
行政の関わる「結婚相談」に熱心にやってくるのは、当事者である男性ではなく、彼の親である、というのもうなずける。親は、「息子の妻」をさがしに来るのではな く、「家の嫁」をさがしに来るのではないか。

和語(日本独自の表現)では、配偶者を「ツマ」といった。だから、「妻」も 「夫」も、「ツマ」と読む。いとしいと思う相手を「ツマ」と呼んだのである。
「嫁不足」を嘆くのではなく、一緒に農業というものに取り組んでいく、共同経営者 (当然収入を分け合う)としての「妻」を探したい、といったら、「はーい」と手をあげる女性がいるような気がする。
まさに、「問題は『嫁不足』」である。「嫁」としてしか、女性をとらえない考え方 にこそ、問題がある。

 

 

 

 

1月22日
問題は『嫁志願』    (カナコ)

 

車で遠出した帰り、雪による渋滞で閉じ込められて、随分ゆっくりカーラジオを楽しむ事になってしまった。リスナーから葉書がたくさん届いているところを見ると、ラジオファンは結構多いらしい。『先日、小学校の朝礼で、教頭先生の長いお説教に、真っ先に貧血で倒れたのは校長先生でした』なんていう葉書には、思わず声を出して笑ってしまった。
そんな“お便り紹介”のあとは、「生まれ変わったら何をしたい?」というコー ナー。「歌手になりたい」「野球選手になって、金と美人を手に入れたい」などという可愛い夢が続き、何通目かが35歳主婦からの葉書。『生まれ変わったら、家庭に縛られないで、仕事をしたり好きな旅をしたりしたい』
35歳?・・・ラジオでなければ聞き返したかった。この若い彼女を、何がそんなに縛っているのか。彼女にとって仕事や旅は、生まれ変わらなくては「できない」ほどのものなのか。

たしかに農家の嫁は、パートナーというよりは大切な「手」。「共同経営者」というイメージからは程遠い。しかし、サラリーマン家庭の嫁である「専業主婦」も、夫と対等なパートナーでない事に変わりはない。もしかしたら専業主婦という座は、農家の嫁よりずっと心地よさそうに見えるからこそ、問題は複雑かもしれな い。
専業主婦という道を選ぶ時、つい、家事と育児とカルチャー三昧で暮らせる人生を夢見てしまい、将来、夫に「誰に食わせて貰ってるんだ」と言われた時、返す言葉がな いなどとは考えもしない。

「生まれ変わったら・・・」と夢見ている彼女も、そんな夫の言葉に「私は自分の箸で食べてるわよ」と開き治れるタイプではなさそうだ。対等でない結婚をそのままに受け入れて、毎日ひたすら夫名義の家を磨き、夫名義の子どもを育てているのだろう。自分自身すら、夫名義にしてしまって・・・。

 

 

 

 

1月26日
『夫婦』と『夫妻』と  (カノコ)   

 

「『夫婦』ってのと、『夫妻』ってのは違うの?」と質問された。
よく似た二つの語がどう違うのかを考えるには、使ってみるのが一番である。
(たとえば、「意志」と「意識」。これには「〜を失う」をつけてみれば、その違い がくっきりと現れてくる。)。

A「私ども○○」、B「皇太子御○○」という場合を考えてみる。○○にはどちら が入るか。日本語を使ってきた人ならほとんどの人が、Aには「夫婦」を、Bには「夫妻」を入れる。
使っている実感から、この2語はよく似ているが、決して同義ではない、ということがわかるだろう。

そこのところを辞書はこう説明する。「夫妻=(他人の)夫婦に、やや敬意を含ませた表現」(三省堂:新明解国語辞典)。
どうして「夫妻」には「敬意」が含まれるのか。それは、この「漢語」のもとを作っている漢字を調べるとわかる。
「妻=男子の正式な配偶者」(正式でないのが「妾」)
「婦=既婚の女性。「女」が「帚(ほうき)」を持つ様からできた漢字。(家事に服する)女。」
だから、「主婦」はあっても、「主妻」ということはあり得ない。「主婦=家族が気持ちよく元気に仕事(勉強)ができるように生活環境を整え、食事などの世話を中心になってする婦人。(主として妻に、この役が求められる)」「主婦権=家政を受け持つ主婦としての家庭内管理の権限」
つまり、一軒の家の中には、1人の「主婦」がいる、ということだ。「主として妻に求められる役割」であるが、そうでないことも当然ある。逆に言えば、「家事に従事しない妻」は、「主婦」ではない。
どうもそのあたりのニュアンスが、「夫婦」と「夫妻」という言葉に込められて使われている。

「和語」では、「夫」も「妻」を相手を「ツマ」と呼ぶ、という話を先回した。 「妻」と「夫」は、「めおと」である。そこには。「家事従事者」という意は全くな い。互いを、パートナー(伴侶)として見る意識だけである。

ところで、フィリピンでは、2人目の女性大統領が誕生した。亡夫の意志を継いだアキノ大統領とは違い、アロヨ新大統領には、元気な夫がいる。フィリピン史上初 の「大統領の夫」である。弁護士の仕事を休んで、国賓のもてなしなど公務に励むそうである。