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TVで、さかんに「結婚式場」のCMをやっている。そういえば、正月に横浜から帰省した子どもが、東京では「結婚式場」のCMなんか見たこと
がない、といっていた。なんといっても「尾張の豪華な嫁入り」の伝統が、この地方には生きているのだろう。 TVに映し出されるのは、満面の笑みをたたえた「花嫁」である。どこかのCMのバックに流れる曲のタイトルを見て、なるほど、とうなずいてしまった。「あなたを愛す私を愛す」というのだ。歌詞が全部流れるわけではないので、本当のところ何を言っているのかはわからないのだが、「笑顔の花嫁」とともに見ると、それが、「あなたを愛す私を、(私は)愛す」と言っているように思われるのだ。 「結婚」をするのは、「花嫁」になるためである。そんな気を起こさせるCMの作り方である。「花嫁」こそ、あなたが「ヒロイン」になれるチャンス!! しかし、「結婚」をしたがる人は、減り続けているのだという。 どうして、結婚したがらないのか。様々な人が、様々な見解を発表しているが、私は、女たち(の何人か)が、「結婚」は「花嫁」になることだけではない、ということに気づいたせいではないか、と思っている。 「花嫁人形」という歌がある(大正12年、蕗谷紅児作詞)。 |
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お正月番組のウルルン滞在記で、アフリカの地雷で傷ついた子どもたちを、ドイツで治療するNGOを紹介していた。そこで治療を受ける女の子(12歳)の1年間の取材で、彼女はドイツに運ばれた当初、「早く帰って、子どもをた
くさん産んで、いいお母さんになりたい」と繰り返していた。 かつて奴隷制度の中で、奴隷たちの誉れは「自分が最高値で売買されること」だったという。彼らに、それ以外の選択肢はなかったから。 日本にも「家」という制度がある。その「制度」から外れた生き方をすることは、容易ではない。結婚式にも、依然として「〇〇家」という言葉が幅を利かせる。 日本では、ともかく形態・書式を調えることが結婚。だから、夫婦別姓でいるための事実婚は好奇の的だし、離婚の母はまだ許せても、未婚の母に向ける目は冷たい。そのため、日本の婚外子は1%以下。いかに「世間の目」が厳しいかということがよく
分かる。 そして、一度「気づく」と、もう後戻りはできない・・・・・。
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知事選候補者に対しての「言わせて」のコーナーに、飛騨のほうれん草農家の青年の声が載っていた。 「青年部としての悩みはやはり後継者、嫁不足です。まだまだ農業に対して『暗い』
イメージが残っているのが原因だと思う」というものだ。 問題は、「嫁不足」「嫁さがし」というとらえ方自体にあるのではないだろうか。 和語(日本独自の表現)では、配偶者を「ツマ」といった。だから、「妻」も 「夫」も、「ツマ」と読む。いとしいと思う相手を「ツマ」と呼んだのである。 |
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車で遠出した帰り、雪による渋滞で閉じ込められて、随分ゆっくりカーラジオを楽しむ事になってしまった。リスナーから葉書がたくさん届いているところを見ると、ラジオファンは結構多いらしい。『先日、小学校の朝礼で、教頭先生の長いお説教に、真っ先に貧血で倒れたのは校長先生でした』なんていう葉書には、思わず声を出して笑ってしまった。 たしかに農家の嫁は、パートナーというよりは大切な「手」。「共同経営者」というイメージからは程遠い。しかし、サラリーマン家庭の嫁である「専業主婦」も、夫と対等なパートナーでない事に変わりはない。もしかしたら専業主婦という座は、農家の嫁よりずっと心地よさそうに見えるからこそ、問題は複雑かもしれな
い。 「生まれ変わったら・・・」と夢見ている彼女も、そんな夫の言葉に「私は自分の箸で食べてるわよ」と開き治れるタイプではなさそうだ。対等でない結婚をそのままに受け入れて、毎日ひたすら夫名義の家を磨き、夫名義の子どもを育てているのだろう。自分自身すら、夫名義にしてしまって・・・。 |
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「『夫婦』ってのと、『夫妻』ってのは違うの?」と質問された。 A「私ども○○」、B「皇太子御○○」という場合を考えてみる。○○にはどちら が入るか。日本語を使ってきた人ならほとんどの人が、Aには「夫婦」を、Bには「夫妻」を入れる。 そこのところを辞書はこう説明する。「夫妻=(他人の)夫婦に、やや敬意を含ませた表現」(三省堂:新明解国語辞典)。 「和語」では、「夫」も「妻」を相手を「ツマ」と呼ぶ、という話を先回した。 「妻」と「夫」は、「めおと」である。そこには。「家事従事者」という意は全くな い。互いを、パートナー(伴侶)として見る意識だけである。 ところで、フィリピンでは、2人目の女性大統領が誕生した。亡夫の意志を継いだアキノ大統領とは違い、アロヨ新大統領には、元気な夫がいる。フィリピン史上初 の「大統領の夫」である。弁護士の仕事を休んで、国賓のもてなしなど公務に励むそうである。 |