1月29日

妻いろいろ  (カナコ)


 

夫婦の「婦」は、女編に「帚(ほうき)」という話は面白い。 「婦」が「帚」を持つ「女」なら、「主婦」と言うのは「掃除主任」ということか。
しかし、いくら「主任」と持ち上げられても、現代の主婦には、その下に従ってくれる従業員はいない。「主任」兼「下働き」が実情。それでも、多くの主婦が、「私がいるからこそ、家族みんなが快適に暮らせているのだ」という信念を拠り所として、 日夜がんばっている。
かつて私自身も、そんな思いがなきにしもあらずだった。しかし長期の入院をした時、その拠り所は見事に吹き飛ばされた。主婦などいなくても、家の中はそれなりに快適に動く。その上、父と子のチームワークは、なかなかのもの。「主婦」は、もしかしたら彼らの能力発揮の機会を、阻んでいたのかもしれない。
ともかく、我が家においては、「婦」の存在は大したことはなかった。

だったら、「妻」は?
日本には、種々の妻が存在する。悪妻・良妻・愚妻に始まって、若妻・人妻・新妻・ 心の妻・刺身のツマ・・・。しかし夫には、「愚夫」も「若夫」も存在しない。これは、言葉というものが男社会の中で作られて来たため。
男たちにとって、「妻」をジャンル別にしたり、ランク分けするのは、意味のあることであったが、自分たちをランク分けする必要はなかった。源氏物語の「雨夜の品定 め」である。
こうしてみると、「妻」も、あまり嬉しい存在ではなさそうだ。

「婦」も「妻」もイマイチ・・・。だから女たちの多くは、その空回り部分を、「血 のつながっている子ども」との絆に託してきた。しかし、子どもと母親は“血がつながってはいない”
母親の体内で、へその緒は養分は通すけれど「血」は通さない。確かに、私と2人の子どもは、血液型が違っている。同じ血は流れていない証拠。
夫も子どもも、結局は「他人」・・・と言って心寂しければ、「別人格」。心地よい人間関係は、そこがスタート。

永六輔氏の言葉。「あなたね、女房だと思うから腹が立つんです。どこかの見知らぬ女だと思えなばいいんです。どこかの見知らぬ女が、炊事・洗濯、その上いっしょに 寝てくれる。これは頭が下がりますよ」

 

 

 

 

 

1月30日

『夫』と『妻』・『夫』と『婦』  (カノコ)

 

刺身の「ツマ」と「妻」は、もともと同じ、といったら驚かれる だろうか。
「え〜、私、添え物じゃない」って。
「ツマ」とは、もともとは「端」のこと。「本体・中心から見て他端のもの、さらに、相対する位置のもの」という意味なので、「配偶者」もいえば、刺身のツマもいうのである。ついでにいえば、着物の「褄」も同義である。
「ツマ=妻」は、相手との「関係性」を示す言葉なのだ。英語だったら「wife」。

それに対して、「婦」は役割をあらわす言葉だ。英語(正確には米語らしいが) だったら「home-maker」。
結婚しても、男は「夫」にしかならない。しかし、女は「妻」になるのか?「婦」になるのか?
だからだろう。さすがに最近は減ったものの、結婚するとき、女は、「仕事、続けるの?」と聞かれる。が、男にそんなことを聞く人はいない。
(子どもが生まれるときは、二人は平等である。女は「母」になり、男は「父」になる。)」。

昨年行われた岐阜県の調査に、「女性に対する暴力に関する調査」というのがある。その中に、こんな質問項目があり、次のような答えが示されている。
○夫は仕事を、妻は家事・育児をするのがよい。
  「そう思う」「どちらかといえばそう思う」・・・ 全体 55.4% (男性 :62.1%  女性:49.8%)
○女性は結婚したら、自分のことより夫や子どものことを優先して生活する方がよい。
  「そう思う」「どちらかといえばそう思う」・・・ 全体 42.0% (男性 :42.5%  女性:41.4%)
「女性」は結婚したら、家事・育児に従事し、自分自身のことよりも、夫や子どものことを考えるべき存在である、という意識の強さが示されている。「子どもの病気」 で仕事を休む「夫」はだから、「軟弱もの」呼ばわりをされ、「子どもの病気」で仕事を休まない「妻」は、「人非人」呼ばわりをされる。
「結婚式」のその先にあるのは、「婦」道なのである。

先日の新聞に、東大で野球をやっている女性が紹介されていた。六大学のリーグ戦で投げるのだ、という彼女は卒業後の進路を聞かれてこう答えている。
「フリーター。体を動かしてないとダメだから、デスクワークはできません。アルバイトでお金を貯めて、バイクで世界一周。後は青年海外協力隊みたいなところで仕事ができればいいんですが。(結婚は?)したくないですね。縛りたくないし、縛られたくもない。もし、結婚したら、自分は家事を完璧にこなそうとする。しなくてもいいと言われても、きっとやる。それが嫌なんです。だから、相手じゃなく、自分の問題」
この伸びやかなアスリートさえ縛る「婦」道のくびきは、どうもかなりのものらし い。」

 

 

 

 

2月1日

『妻』も『婦』も  (カナコ)

 

学生時代から国語が苦手で、文法はチンプンカンプン。読解問題は、いらぬ想像力をめぐらせすぎて、出題者の意図とはかけ離れるばかり。漢字に至っては、最近特にワープロ・パソコンに頼りきりで、独力では浮かんで来もしな い。
そんな私でも、『妻』とか『婦』という漢字には、つい、こだわってしまう。この二 つには、しっかり『女』が入っているのに、『夫』という文字には『男』の影もないのが摩訶不思議なのである。

妻や婦だけではない。女編の文字は、思いつくだけでもかなりある。
嫁・姑・好・嫌・妨・妖・奸・嫉・妬・娘・奴・婿・妾・妄・妥・姦・婆・・・ etc。
眺めて見ると、何と“嬉しくない”イメージの漢字ばかり並んでいることか。女の額が波打ち始めるのが婆なら、ジジも“波に男”と書きたいところ。
クレームをつければ、きりがない。「男の嫉妬だって、そこそこのものでしょ?ストーカーの大半は男なのに」「妄想たくましいのも、悪巧みも、男の茶飯事じゃないの?」「好き嫌いの感情は女だけ?」「男の良いのは、息子とは呼ばないの?」「男が古くなっても舅にはならないの?」「婿がなんで女偏?」・・・

妻や婦と同じくらいに気になるのが、女偏に家と書いて『嫁』。こんな文字だから、女は家にいるものだという観念からどうしても離れられない。この場合の『家』は、 女が生まれ育った生家ではなく、嫁いだ先の夫の家を指す。だから“息子の嫁”では なく、“うちの嫁”と呼ばれることになる。
この文字のように、日本の社会制度に利用されてきた漢字は少なくない。女が古くなった『姑』は、悪の権化のように言われてきたが、これも男社会の中で“姑の存在”が、女性蔑視を気づかせないためのスケープゴードに使われてきた感が、なきにしもあらず。

「たかが言葉・・・されど言葉」 その一つ一つに大して意味はないとしても、毎日繰り返して目にしていると、知らず知らずのうちにマインドコントロールされる。も しかしたら、かなりの女性たちが信じているのかもしれない。「嫉妬や妄想は、女の専売特許なのだ」と・・・。

 

 

 

 

2月3日

『婿』はどうして女偏?   (カノコ)

 

なんということなく、辞書を見ているのが好き。これも、「趣味」っていうのかな?
「女」偏、というのはある。しかし、「男」偏、というのはない。「男」の部首は 「田」。「男」は「田」で力を用いる、という字。耕作地で働くことができる壮年の オトコ、という意味である。
「和語」(もともとの日本語)では、人間の♂は「ヲトコ」、♀は「ヲンナ(ヲミナ)」。これは「対(つい)」になった言葉である。
そのことばを「漢字」にするとき、「ヲンナ」は「女」になった。しかし、「ヲトコ」は「男」だけではなく、「夫」も「士」も使われていた。「男」が主に使われるようになるには、かなりの年月を要している。

で、中国ではどうだったか。「男」は先述の意味、「夫」は、「大夫=成年男子」で、「農夫」「抗夫」などと使われている。「士」は「士」偏として、自ら偏になる語で、「士女」という語が「男女」の意味を持つことから、これがどうも「女」 とペアを組むには、一番適当らしい。これも「成年男子」をあらわしている。
  「女」はたしかに「女性」を示すが、「婿」がそうであるように、明らかに女性を指すのではないものがある。「婿」「姓」「婚」「姻」。
と並べると、これが、「血筋=系譜」に関係するものだと思える。古代の人は、はっきりわかる、女から子どもへの流れを「女」偏として意識したのではないだろうか。 女しか子供は産めず、彼女しか子孫は残せないのだから。

女偏の様々な字の中で、私が一番気になるのが「委」である。委託・委任・委員の「委」。
  「女」とイネ科の植物をあらわす「禾」で構成されるこの字は、稲の穂がしなやかに垂れ下がっている様子と、女が従順な様子が共通イメージとされ、そこから「他にゆだねる」という意味になったという。
ゆだねる、おまかせする。
自らは判断せず、「父」に、「夫」に、「子」に従うのが、女であった、ということ があからさまなかたちであるのだ、という気がする。

「男が古くなっても舅にはならないの?」
なる。プラスされている「臼」は、「キュウ」=「久」=「年老いたもの」。
「姑」「舅」は、まったく男女平等の対の漢字である。

 

 

 

 

2月5日

ヒトミトコンドリア  (カナコ)

 

このタイトルを見て、すぐに「ヒト・ミトコンドリア」と理解した人は、よほどの生物通か、あるいは雑学オタク。私は何度見ても、未だに「“ひとみ”とコンドリア」としか読めない。
この“ミトコンドリア論”を突然思い出したのは、「婿」「姓」「婚」「姻」の文字 が「血筋=系譜」に関係するものだという話から。

パラサイト・イヴの作者、瀬名秀明氏によると、ミトコンドリアとは、細胞内にあるエネルギー生産工場のようなもので、生命の根本をつかさどり、長生きの家系かどうかなどのDNAを持つという。
今話題のヒトゲノムなどに出てくるDNAは、一般に“核DNA”を指すが、人間の遺伝に関わるDNAは、“核”と“ミトコンドリア”の中にあって、どちらも重要な働きをしているらしい。

面白いのはここからで、この“核DNA”は確かに両親から受け継ぐけれど、“ミトコンドリアDNA”は母親からだけしか遺伝しない。なぜなら、精子の持っていた “ミトコンドリアDNA”は、受精後すぐに卵子の中で分解吸収されて、消滅してしまうからだ。さらに分解されやすいように、ミトコンドリアDNAは精子の頭部分ではなく、尾の付け根あたりに存在しているという。
分解吸収の理由はまだ解明されていないが、ミトコンドリアDNAが“確かな母系遺伝”だという事実は、人のルーツを探るのに有効なだけでなく、歴史をも考え直させ る。

古代のヨーロッパでもアジア大陸でも、かつて戦いで侵略を果たした男たちは、そこに住む男を皆殺しにして、女たちに自分らの子どもを生ませようとした。日本の戦国時代にも、国取りの後に敗者の姫を側女にして「血筋=系譜」の書き換えを図った男たちのドラマが展開されていた。
しかし、前述のようにヒト・ミトコンドリアは母系遺伝。結局、彼らの思惑は大きく外れて、侵略者たちのミトコンドリア遺伝子は消滅し、女性側のミトコンドリア遺伝子のみが残されたことになる。
男たちの、せっせと「血筋=系譜」作りに励んでいた行為が、ちょっと虚しい。

そんなこんなで今だけは、「婚姻」や「婿・姓」の文字が少々気に入らない女偏であっても「まァ、いいか」・・・という気分になっている。