2月11日

品定め  (カノコ)  


 

バレンタインデーが近づいてきた。チョコレート売場は大にぎわいである。チョコレート屋さんによって仕掛けられたこの行事、今ではすっかり早春のイベントとして定着したようだ。
が、いまだに苦々しい顔でこのイベントを見ている人たちがいる。チョコレートがもらえない男性たちだ。
「本命」チョコを、ではない。「義理」チョコの方である。

女性たちもこの季節忙しい。「本命」は問題ない。かねてから決めてあるとっておきのお菓子屋さんのにするか、手作りでいくかさえ決めればそれでいい。
手間がかかるのは、「義理」チョコの方である。職場で、趣味のサークルで、知り合いに、いくらぐらいのを、どう配るかを考えなくてはならない。
今や「義理」チョコは、お中元・お歳暮なみのイベントなのである。

かくして2月14日。
その集団(職場やサークル等の)では、チョコレートをたくさんもらえる男性と、もらえない男性が現れるのである。
「本命」はさほど期待していない男たちも、「義理」チョコの数には平静でいられない。
どうして、あいつは、オレより多いのだ!
あんな風采の上がらないヤツがもらえて、職場のエリートたるオレのところにはなぜ来ないのだ!
で、「バレンタインなぞはくだらん風習だ!」と、苦々しい顔で無視を決め込む男性が出現するのだ。

「義理」チョコは、女たちの人気投票=「男たちに対する品定めの結果」なの だ、という気がする。
見かけがいい、から一票。一緒に仕事をするときの気配りが行き届いているから一 票。ホワイトデーのお返しが期待できるから一票。この前、ミスをかばってくれたから一票。
女性たちは、チョコレート売場で、身近な男性の顔を思い浮かべながら、「いい男投票権」であるチョコを買うのだ。
女性受けのいい男性かそうでないか。「評判」は具体的に目に見えない。しかし、 チョコレートははっきり数として目に見える。

「雨夜の品定め」から、「ミスコン」まで、常に、選ぶのは男で、選ばれるのは 女であった。
男は、選ぶのには慣れていても、選ばれる経験は乏しい。女を採点する経験はあっても、女から採点されることはなかった。
袋いっぱいのチョコをもらえる男性を横目で見ながら、「バレンタインなんぞ、くだらん風習だ。世界には、満足に食事も食べられない人がいるっていうのに・・・・」 などと、見当はずれな悪態をつくあの人。どうして自分には「投票」されないのか、その原因を考える必要があるのでは・・・・?
(2月になったとたんに、やたら親しげにふるまっても、身近な女たちには、ミエミエなんだけど・・・)

 

 

 

 

 

2月13日

いい関係   (カナコ)

 

カーラジオで漏れ聞くところによれば、岐阜放送が、「バレンタ インチョコを禁止する」という張り紙をしたそうな。
この決定を下したのは、こんな行事に振りまわされたくないと目覚めた女性たちであったのか、はたまた“選ぶのには慣れていても、選ばれる経験には乏しい”男性幹部たちであったのか。
盆・暮れの挨拶も一切禁止というわけではなかろうから、やはり、会社のエリートたちの士気に関わると判断をしたのだろうか。
張り紙に至る真相は定かではないが、もし2月14日が、「意中の女性に、男性がチョコを送る日」という風習であったなら、今回のような仕儀にはならなかった気がしないでもない。
チョコ産業の商魂を後押しする気は更々ないので、バレンタイン廃止にはもろ手を挙げて賛成するが、この行事だけにクレームつけるのは、女性との“いい関係”づくり から逃げてるのかと、気を廻してしまう。

ある行政が作ったセクハラ防止規則の中に、「相手と良好な関係にあると一方的に思い込まないこと」という意味の一文がある。「あいつは女性の肩に手を置いてもいいのに、何でワシが同じことをするとセクハラなんだ!」と抗議する人のため。
こういう声を挙げる“お歴々”方は、家に帰っても、「妻と良好な関係ではないかもしれない」などとは、ユメユメ思わないようだ。
無理もない。風呂上りには、冷えたビールが待っていて、「アッ」とか「ウッ」で、新聞・リモコン・めがねが揃う。女房はオレを分かっていてくれると誤解しない方がおかしい。

経済企画庁の調査によると、「自分を一番理解していてくれるのは妻」と答えた 男性は、30代で60%、40代で70%、50代で80%、60代では90%を超える。
一方妻の方は、30代〜60代まで60%から動かない。ということは、かなり早い時期からあきらめている…見限っているということか。

気配りは女性の天性と言われる。しかし、ずっと弱者であった女たちは、支配者たちに気を配らなければ生きて来れなかった。習い性となっただけ。
気を配られるのが日常となれば、配られている方の自覚はなくなる。ましてや、自分がランク付けされていたり、見限られているなどとは思いもしないから、定年離婚・ 熟年離婚をつきつけられて、晴天の霹靂とあわてふためく。
結婚は、ゴールではなくて、“いい関係”を作るスタート。

家庭の相棒である、たった一人の妻と“いい関係”のできないようなオトコに、 職場で“いい人間関係”などできるわけはないのだろうなあ。

 

 

 

 

2月16日

振り向けば君がいて   (カノコ)

 

JRが、まだ国鉄だったころ、フルムーンパックのCMで、「振り向けば君がいて」というコピーが流れていた。定年退職した男性が、それまで省みることの少なかった「古女房」を、旅行にでもつれていってやろう、というシチュエーションである。これは、当然男性が作ったCMであろう。
なぜなら、「古女房」は当然、夫と旅行に行くのを喜ぶはずだ、という思いこみがあるからだ。

喜ぶ「古女房」ばかりではない、という調査結果がある。
「懸賞で2人分の1週間ハワイ旅行があたったら、誰と行きたいか?」という問いに、
○「配偶者と」と答えた人  男93.5%   女71.5%
○「子どもと」と答えた人  男4.5%    女16.0%
○「友人・知人と」と答えた人 男1.5%  女11.5%
(45歳〜54歳の男女。サントリー不易流行研究所 1998年調査)。

「妻」と一緒に行きたい、と9割以上の男性が答えているのに、むしろ驚く。
というか、働き盛りの男性は、「妻」以外に、同行者が思いつかないのかもしれない。
1泊旅行なら、職場の知人の方が面白いかもしれないが、1週間、というとためらう。
子どもとも、1週間2人でいたらどうなるか・・・自信がない。第一子どもがついてきてくれるか、なんてことも考えるのだろう。
で、無難なところで「妻」と答える。

一般的にいわれるのは、
「定年後、妻と一緒に旅行に行きたい夫、80%。
夫とだけは、旅行に行きたくない妻、80%」
という数字である。
どうして、妻は、長年連れ添った「夫」とだけは、旅行へ行きたくないのか。
最近やっている証券会社のCMで、それがつくづくわかった。
定年まで勤めていた会社に「投資」をしませんか、というCMなのだが、最初の場面が、妻との旅行シーンである。
どこかの落ち着いた旅館の縁側の椅子に座る2人。妻は、夫にお茶を入れる。夫はお茶を飲みながら、しみじみ思うのである。
妻が何を思っているのか。このCM制作者(おそらくは男性)は、思い至っていない。
が、見ている「妻」たちは、みんな感じている。
「あれじゃあ、(日常を離れて)旅にいった甲斐がない。結局、夫の”お世話”をしているだけなんだから」。

 

 

 

 

2月18日

妻の定年   (カナコ)

 

テレビの身の上相談で、世の中を悟ったような熟年のタレントが しばしば口にする言葉がある。「男なんて、かわいいものよ。上手に立ててさえおけば、うまくいくのだから」
この“常識”を信じて、何と多くの女性たちが『立ててるフリ』をしつづけてきたことか。
人生が60で終わっている時代ならば、早々に夫を送ったあと、「お茶ひとつ入れられない人で大変だったけど、あの人も悪い人じゃなかったわ」と思い出話に花を咲かせることもできるが、それから更に20年を共に過ごさねばならないとなると、話は少々変わってくる

どこかの保険会社が、「妻の定年はいつだと思うか」という調査をした。
あなたの答えは何だろうか。
一位は、多分ご想像の通り、「夫の定年の時」。 今時の半分くらいの妻たちは、夫が退職したら自分の身の回りくらいはできるようにしてもらおうと、てぐすね引いて待っている。
二位は、「夫が死んだ時」。けなげにも夫の面倒は生涯みようと、覚悟を決めている妻も少なくない。
三位は「自分が死んだ時」。死ぬまで家事を手抜きはしないという実直派。
四位は「子どもが結婚してしまった時」。最近の晩婚化で、“定年”はだんだん遠くなる。
五位は「閉経の時」。オンナが終わるというセンチメンタルな気持ちなのか、それとも“おしとねすべり”の意か。
六位は「夫への愛がなくなった時」。これだと、随分早い時期に“定年”を迎える人がいる。

『妻の定年』という問に、素直に回答を記入された人たちは、『妻の本来の仕事』をしっかりとイメージできていたに違いない。しかしそれが、本当に『妻の仕事』であり『妻の役割』なのだろうか。
時々夫に尋ねて見る。「家事万端きっちりこなすけれど、額に三本シワを寄せてる世話女房と、な〜んにもしないけど、いつもニコニコしている同居人と、どっちがいい?」 返事はなくても、後者だと信じて生きれば、“定年”はない。