2月19日
泣く子ども   (カノコ)

 

駅の駐輪場で、大泣きしている子どもを見た。3歳ぐらいの女児。自転車から降ろされて、これから駅へ行こうとする段になって、「抱っこ〜」と いって泣いているらしい。
私が駐輪場に来たときには、すでに大泣きの状態だった。
母親がいっている。「どうして、抱っこなの?!」
子どもは、泣くだけ。母は、抱く気持ちはないらしく(前もって、歩こうね、という 約束でもあったのかもしれないが)何度も同じ問いかけを繰り返す。
何度目かの問いに、子どもが泣きながら答えた。
「だって、抱っこ、好きだもん〜」

”なんと、適切な答えか”と私は感心して聞いた。
”そうだよね、抱っこ、ラクチンだし、うれしいし、好きなの当然だよね”
と思ったが、そんなことは言えない。荷物を前かごに入れ、自転車を出して帰ってきた。
子どもの泣き声と、だんだんヒステリックに高くなる母の声は、かなり遠くまで聞こえてきた。

こんな時、どうしたら子どもを泣きやませられるか。
最初に、「歩きたくない。抱っこ〜」といったとき、膝をかがめて、子どもの目線と会わせて
「どうしたのかな? アンヨしようね、ってお約束したのに」
といって、子どもが伸ばした両腕で抱きついてくるのを抱きしめ返す。
腰の具合が悪くて、どうしても抱っこしていけないなら、そう子どもに説明する。

今なら、それがわかる。
怒鳴りつけたり、叩いたりしなくても、子どもはそれで泣きやむと。
泣いている子どもを泣きやませるのは、抱きしめてやるのが一番だと。
あのころには、まだ若い必死な母親のころには、わからなかった。
たとえ、わかっていても、できなかった。
泣く子どもに屈服してはならない、とどこかで思っていた。
ここで「負けたら」ダメだ、と、かたくなに。
私は、大人で、相手は子どもでしかないのに、必死に同じ土俵で闘っていた。

子どもは、泣くもの。子どもは理不尽なもの
と、鷹揚に構えて受け止める余裕がない。
「泣く子と地頭には勝てぬ」といって、子どもの泣きわめきを受け止めてきた余裕を、私たちはいったいどこへ忘れてきてしまったのだろうか。

 

 

 

 

 

2月21日
どうして?!  (カナコ)

 

子どもが小さかった頃、何度たずねたことか。
同じ目線ではなくて、頭の真上から・・・。
「どうして?」ではなくて「どうして!」・・・と。

「お財布、落としちゃったの」と、べそをかきながら戻った子どもに、
「いつ!」(だからいま報告してるでしょ!)
「どこで!」(分かっていれば拾って来る!)
「どうして!」(落し物に理由なんかない!)

たいていの子どもは、( )のような反論はできないから、さらに泣き声が高く なる。そこに、追い討がかかる。
「泣いてちゃ、分からないでしょ!」(他にどうすりゃいいんだ!)
「あんたって子は、いっつもそうなんだから!」(親譲りだろ!)
「お母さんは、もう知らないからね!」(望むところだ!)

思春期になって、反抗できるようになれば一人前。しかし、そうできないまま 育ってしまう“いい子”が少なくないのが現状。
「学校へ行きたくないなあ」とつぶやいてみたいのに、「どうして!」と問われたら、周りを納得させられる言葉がない。
「給食をむりやり食べさせられるから」「隣の子がいじめるから」・・・そんな中途半端な返答では、なかなか解放してもらえない。
(“学校へ行かない”と言ってるんじゃない。“今日は、何となく行きたくないな あ”と感じただけ)という意志表示は、“いい子”にとっては、結構難しい。

そして、NOという意志表示の方法を知らないままに大人なってしまった彼ら が、いま親になっている。
「子育てがつらいなあ」とつぶやいてみたいのに、「どうして!」と問われるのが怖くて、言葉にできない。
(“子育てがイヤだ”と言ってるんじゃない。“今日は、ちょっとだけつらいなあ” と感じただけ)という意志表示は、結構難しい。
『〜ママ ママ 我がママ あるがママ〜 連楽会』  http://www.wagamama.npo-jp.net は、そんな人たちのためのページ。
子育てネットの『けいじ板』は、NOと言うための『けいこ板』。

 

 

 

 

2月25日
春寒   (カノコ)

 

「春だ!」と思わせるような暖かい日が続いたあとの寒さ。ちょうど、今日のような日のことを、「春寒」という。手紙の書き出しに「春寒料峭の候、皆様にはお変わりなく・・・」と使う語である。(料峭・・リョウショウ・・春風が肌に冷たく感じられること)

栗木京子という歌人の、こんな短歌を思い出した。
  春寒や旧姓繊く書かれゐる通帳出で来つ残高すこし

「結婚」によって、女性が失うものの一つに「姓」がある。
自分が生まれ育って来る間に使っていた「姓」を失い、自由に使えなくなること、これも「結婚」の一つの現実である。
古い「姓」を失い、新しい「姓」を手に入れた女は、◇◇○○の妻と呼ばれ、◇◇家の嫁と呼ばれる。
自らの収入を持たない「妻」や「嫁」は、自分の名前の通帳の必要はない。

春寒に、外へ行くのもめんどくさくて、部屋の片づけをした。
すると、引き出しから、旧姓の通帳が出てきた。久しぶりに見る、けれど見慣れた名前。
その名前の持ち主は、存在しているが、存在していない。
今、ここにいるのは、○○の妻で、◇◇家の嫁で、その上、□□の母。
それで、「わたし」はどこにいる?

「わたし」をなくして、家族のために尽くすこと。
それが女性の生き方である、とする「常識」がある。
彼女が手に入れる最高の栄誉は、○○氏の妻、□□氏の母として死亡記事が載ることだ。

 

 

 

 

2月27日
「私」は「私」  (カナコ)

 

民法では夫と妻、どっちの姓を名乗ってもいいんだけど、慣習と してほとんどの夫婦が夫の姓。
「夫の姓を名乗った夫婦は、何%くらいだと思う?」と尋ねると、「80%? 思い切って85%くらいかな」「もう一声!」「エーッ、でも90%・・・は、ないよね え。」
いえいえ、現在夫の姓を名乗っている夫婦は、97.8%。
でもこれは、「97.8%の女性が、夫の姓を名乗りたいと切に望んだ数字」ではない。

近年、仕事で培った経歴を、姓を変えることで中断されたくないと考える女性が増え、せめて職場でだけは旧姓を使い続けたいという彼女らの願いを、時代はようやく受け入れ始めた。
県内でも多治見市は「旧姓使用要項」を定めて公にこれを認め、業績を上げているようなしなやかな企業も、率先して旧姓使用を認めている。そして先週、文部科学省が、戸籍名を併記しなくても旧姓だけで書類を認めるというお達しを出した。
これは画期的な事。キャリア女性の道に、少しづつ小さな光が見えてきた・・・ように見えるが、一人の人間が二つの名前を使い分けるのは、かなりの煩雑さ。いっそシンプルに、旧姓のまま婚姻届を出したいと言うと、「さもありなん」との反応も多く なった。

脚光をあびる女性たちには、周りの理解も大きく、時代も味方する。しかし、市井の一女性が「自分の名前が欲しい」とつぶやいた時、一斉に冷たい視線が降り注ぐのは何故なのか。
「一主婦に、何でそんな必要があるのか」「何様だと思っているのか」
確かに名前は、周りの人々からの識別用。しかしそれだけではない。自分の名前は、 自分が自分であることの証し。世間で認証されていないからこそ、尚一層『私である部分』が欲しい。これをアイデンティティという。
「私は、私のままでいたい」というささやかな願いを、わがまま・非常識と片付けられて、◇◇さんの妻・○○ちゃんのママであるだけの人生をを生きるしかないとあき らめていた女性たちも、今、ほんの少し声を出し始めている。

夫婦どちらの姓でも選べるという民法は、「機会の平等」を保障している。しかし、97.8%という数字は、明らかな「結果の不平等」。
こういう結果を生んでいる法律は、見直されなければならないと、与党の女性議員たちが「選択的夫婦別姓の導入」の検討に入った。
選択的夫婦別姓とは、「夫婦は同じ姓にしてもいいし、お互いが旧姓のままでいても、どちらでもいいんじゃないか」という制度である。

しかし、若い女性の中にも、この導入を冷ややかに見ている人たちがいる。
「姓が変わらなきゃ、大手を振ってクラス会に行けないじゃないの」「名簿見て、結婚してるかどうか分かってもらえないのにね」
女性が経済的に自立してきた現在でも、彼女らにとってまだまだ結婚は、女としてのステータス。
だから、“男性は名簿で既婚・未婚は分からない”ことを、何の不思議にも感じていない。男性にとって結婚は、ほんのオマケでしかないから。

次回「カナコのエッセイ」は、「大手を振ってクラス会に行きたかった女性」た ちが、結婚後、「夫の〇〇家の墓には入りたくない」と苦心惨憺している話。