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駅の駐輪場で、大泣きしている子どもを見た。3歳ぐらいの女児。自転車から降ろされて、これから駅へ行こうとする段になって、「抱っこ〜」と
いって泣いているらしい。 ”そうだよね、抱っこ、ラクチンだし、うれしいし、好きなの当然だよね” と思ったが、そんなことは言えない。荷物を前かごに入れ、自転車を出して帰ってきた。 子どもの泣き声と、だんだんヒステリックに高くなる母の声は、かなり遠くまで聞こえてきた。 こんな時、どうしたら子どもを泣きやませられるか。 最初に、「歩きたくない。抱っこ〜」といったとき、膝をかがめて、子どもの目線と会わせて 「どうしたのかな? アンヨしようね、ってお約束したのに」 といって、子どもが伸ばした両腕で抱きついてくるのを抱きしめ返す。 腰の具合が悪くて、どうしても抱っこしていけないなら、そう子どもに説明する。 今なら、それがわかる。 怒鳴りつけたり、叩いたりしなくても、子どもはそれで泣きやむと。 泣いている子どもを泣きやませるのは、抱きしめてやるのが一番だと。 あのころには、まだ若い必死な母親のころには、わからなかった。 たとえ、わかっていても、できなかった。 泣く子どもに屈服してはならない、とどこかで思っていた。 ここで「負けたら」ダメだ、と、かたくなに。 私は、大人で、相手は子どもでしかないのに、必死に同じ土俵で闘っていた。 子どもは、泣くもの。子どもは理不尽なもの と、鷹揚に構えて受け止める余裕がない。 「泣く子と地頭には勝てぬ」といって、子どもの泣きわめきを受け止めてきた余裕を、私たちはいったいどこへ忘れてきてしまったのだろうか。 |
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子どもが小さかった頃、何度たずねたことか。 「お財布、落としちゃったの」と、べそをかきながら戻った子どもに、 たいていの子どもは、( )のような反論はできないから、さらに泣き声が高く なる。そこに、追い討がかかる。 思春期になって、反抗できるようになれば一人前。しかし、そうできないまま 育ってしまう“いい子”が少なくないのが現状。 そして、NOという意志表示の方法を知らないままに大人なってしまった彼ら が、いま親になっている。 |
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「春だ!」と思わせるような暖かい日が続いたあとの寒さ。ちょうど、今日のような日のことを、「春寒」という。手紙の書き出しに「春寒料峭の候、皆様にはお変わりなく・・・」と使う語である。(料峭・・リョウショウ・・春風が肌に冷たく感じられること) 栗木京子という歌人の、こんな短歌を思い出した。春寒や旧姓繊く書かれゐる通帳出で来つ残高すこし 「結婚」によって、女性が失うものの一つに「姓」がある。 自分が生まれ育って来る間に使っていた「姓」を失い、自由に使えなくなること、これも「結婚」の一つの現実である。 古い「姓」を失い、新しい「姓」を手に入れた女は、◇◇○○の妻と呼ばれ、◇◇家の嫁と呼ばれる。 自らの収入を持たない「妻」や「嫁」は、自分の名前の通帳の必要はない。 春寒に、外へ行くのもめんどくさくて、部屋の片づけをした。 すると、引き出しから、旧姓の通帳が出てきた。久しぶりに見る、けれど見慣れた名前。 その名前の持ち主は、存在しているが、存在していない。 今、ここにいるのは、○○の妻で、◇◇家の嫁で、その上、□□の母。 それで、「わたし」はどこにいる? 「わたし」をなくして、家族のために尽くすこと。 それが女性の生き方である、とする「常識」がある。 彼女が手に入れる最高の栄誉は、○○氏の妻、□□氏の母として死亡記事が載ることだ。 |
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民法では夫と妻、どっちの姓を名乗ってもいいんだけど、慣習と してほとんどの夫婦が夫の姓。 県内でも多治見市は「旧姓使用要項」を定めて公にこれを認め、業績を上げているようなしなやかな企業も、率先して旧姓使用を認めている。そして先週、文部科学省が、戸籍名を併記しなくても旧姓だけで書類を認めるというお達しを出した。 これは画期的な事。キャリア女性の道に、少しづつ小さな光が見えてきた・・・ように見えるが、一人の人間が二つの名前を使い分けるのは、かなりの煩雑さ。いっそシンプルに、旧姓のまま婚姻届を出したいと言うと、「さもありなん」との反応も多く なった。 脚光をあびる女性たちには、周りの理解も大きく、時代も味方する。しかし、市井の一女性が「自分の名前が欲しい」とつぶやいた時、一斉に冷たい視線が降り注ぐのは何故なのか。 夫婦どちらの姓でも選べるという民法は、「機会の平等」を保障している。しかし、97.8%という数字は、明らかな「結果の不平等」。 しかし、若い女性の中にも、この導入を冷ややかに見ている人たちがいる。 次回「カナコのエッセイ」は、「大手を振ってクラス会に行きたかった女性」た ちが、結婚後、「夫の〇〇家の墓には入りたくない」と苦心惨憺している話。
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