3月2日

『菜々子』か『松嶋』か   (カノコ)


 

先週話題になった「結婚」である。
その「結婚」を取り上げたマスコミの報道を見ていると、二派に別れているのに気づく。
「反町&菜々子」派と、「反町&松嶋」派である(前後が逆になっているところもあるが)。
「隆史&」というところは、どこもなかった。
どうして女性だけは、「姓」ではなく、下の名前で呼ばれるのだろうか。

結婚すれば、「当然」男性の姓に変わるのだから、だろうか。
そういえば、結婚している女性が何かをすると、そのプロフィールにはたいてい「一 男一女の母」と書かれるが、結婚してる男性が「一男一女の父」と特記されることは珍しい。
それどころか、女性は、結婚しているかどうかが書かれ、男性は特に問われないということもある。

そこに、女は、その道のプロである以前に、「妻」であり、「母」でなければな らない、という「世間」の強い意志を感じる。
男は、結婚していても、「夫」や「父」役割をどれだけ果たしているかが、仕事の上で問われることは、皆無であろう。
しかし、女は、どのように業績を上げようと、「でも、おうちは、ほったらかしよ」 「でも、お子さんがねえ、あれではねえ」と「妻」「母」としての落ち度を、厳しく指弾される。
その上、「妻」でも「母」でもない一定年齢以上の女性は、「結婚もできなくてはねえ」「子どもがいなくてはわかるはずない」という非難さえ受ける。

「そんなことをするとお嫁にいけない」「お嫁にもらってもらえない」という言葉や気持ちは、まだ強い呪縛力を持っている。
2人の結婚を記事にするとき、「お嫁にもらってもらう菜々子ちゃん」という意識が強いと、どうも「反町&菜々子」になるようだ。
質問もそうなる。「で、結婚式は?」「花嫁衣装は?」「子どもは?」
結婚は、女性の目標であり、ゴールである。ね、そうだよね、と。
さすがに「お仕事は、辞められるのですか?」というトンチキな質問はなかったようだが。
にこやかに質問に答えながら、しかし松嶋さんの答えは、そうはいっていなかった。
結婚はした。でも、「私」は何も変わらない。

男性にとって結婚は「イベント(出来事)」であり、女性にとっては「生まれ変 わり」なのだ、と〈パラサイイト・シングル〉という語の作者である山田昌弘氏はいう。
女性は結婚によって、今までの人生をチャラにして、新しい人生を送ることが可能なのだ。結婚する相手の職業や経済状況、価値観、家族の状況によって、自分の人生の 修正を迫られる。だからこそ、「一発逆転」を願って、という状況も生まれる。結婚改姓できなくて、何が結婚よ、という意識が強いのは当然である。「改姓」は「生まれ変わり」の目に見える結果であるからだ。
結婚によって、また、結婚相手によって自分の人生のコースが変わるものだとは思わない、思う必要のない女性が登場してきはじめている。
松嶋さんの結婚もそうである。彼女にとって、結婚は「生まれ変わり」ではない。だから「新たな誕生」盛り上げのための、花嫁衣装も披露宴も必要としない。当然のことである。

 

 

 

 

 

3月3日
◇◇家の墓  (カナコ)

 

高橋尚子さんの金メダルフィーバーは今も続いているが、オリンピックの最中は、久々の明るいニュースで沸いた柳ヶ瀬が「尚子 金」の垂れ幕で埋められた。
しかし、これがもし「高橋 太郎」という男性であったら、垂れ幕は果たして「太郎  金」であっただろうか。男性の場合は、名前ではなく姓で呼ばれ、間違いなく「高橋 金」となる。

日本において、姓は男性のもの。そして、その姓を名乗る結婚は、企業でいう吸収合併。
企業では、例えば「太陽銀行」と「神戸銀行」が合併する時、同じ力を持っていれば 「太陽神戸銀行」となり、「日産」「プリンス」のように力に差があれば、「プリンス」の名はなくなる。名のない方には発言権もない。
家制度のなごりが強い日本の結婚は、この吸収合併に等しい。

その「家」につながる「◇◇家の墓」は、日本の古い伝統と信じられているが、 これは大きな誤解。
日本の歴史は、純然たる個人墓。特別な場合の石製を除き、ほとんどが木製の卒塔婆で、これが朽ちれば、墓としての機能はおしまい。
それが変わってきたのは、明治の半ば。天然痘や腸チフスの蔓延で多くの人が死んで、政府はそれを止めるために、伝染病死の火葬を決めた。これが、「◇◇家の墓」 の起源。ここで遺体を骨にして葬る習慣ができて、初めて、何人かを同じ墓に入れるという発想が生まれた。
この伝染病予防法は、1897年の事。この時、きんさん・ぎんさん5歳。決して 「遠い昔の話」ではない。

吸収合併の結婚で、夫の親族との絆ばかりを強制された女性が、「◇◇家の墓」 に入りたくないと意志表示を始めた。
ある女性が、死んだら実家の墓に入りたいと望んだ。実家を継ぐ兄はともかく、難色を示したのは兄嫁。「小姑まで一緒はイヤだ」とういうのが本音だろうが、表向きは 「姓の違う人が、同じ墓に入るのはよくないそうよ」という主張。
悩んだその女性は、一つの結論にたどりついた。「夫が死ねば、妻は役所への簡単な届けで旧姓に戻ることができる。夫が死んだら、旧姓に戻って、実家の墓に入れてもらおう」
しかし、ゴルフ三昧の夫は健康そのもので、妻より早く逝きそうもない。
やむなく彼女は、「◇◇家の墓よりは、散骨の方がいいから」と、その旨を正式な遺言状に残すことにした。しかしこの目論見も、弁護士によって打ち砕かれた。「書くのはかまいませんが、遺言が法的拘束力を持つのは、財産分与と認知だけですよ」
こうなりゃ、息子の好意に頼るしかないと、彼女は今、日夜、息子の洗脳にかかっている。

墓は、単に遺骨処理の問題ではなく、「自分が、いかに生きるか」の集大成。
墓のいらない私は、早々に「織部焼きの小さな小さな骨壷」を買った。
実際に、私の骨がどうなるかは知らない。しかし、私が息を引き取る間際に、夫が耳もとで「オマエの骨は、この織部に入れるから」とささやいてくれることになっている。

 

 

 

 

3月14日
紫式部   (カノコ)

 

あまりにも有名な、『源氏物語』の作者は、「紫式部」。
そう、むかし習ったとき、何となく、「紫」が「姓」で、「式部」というのが「名」 なのかな、と思われなかっただろうか。
すると、「清少納言」は、「清少」+「納言」さんなんだろうか、「清」+「少納言」さんなんだろうかなんて。

これらは実は、名前ではなく、「ニックネーム」であることがわかっている。貴 族の家に「女房」として勤めに出たときに、呼ばれていた名前で、本名ではない。
この偉大な小説家や随筆家の本名が、どういうものであったか、いろいろ想像はされているものの、はっきりとしたことはわからない。
表紙に、「作者名」を書くという本以前であるため、平安「女流」文学の作者たちの名前は、ほとんどわからないのである。勤めに出なかった筆者によって書かれた、 『蜻蛉日記』は「藤原道綱の母」、『更級日記』は「菅原孝標の女(娘)」の作とされ、ニックネームほどの「個人名」さえない。

ところが、紫式部の娘の名前は、ちゃんとわかるのである。百人一首で「大弐三位」と呼ばれる彼女の名前は、「藤原賢子」。なぜ、よりマイナーな娘の方がわかるのか。
彼女は後冷泉天皇の乳母だったからだ。天皇の乳母は、公的な職業であるため、ちゃんと公文書に名が記されているのである。
どんなに偉大な小説家であっても、「公的」な足跡を残さなかった、母の名前はニックネームしか伝わらず、公的な職についた娘の名前は、はっきりわかる。

「娘」として、「妻」として、そして「母」として、「家」という私的空間のな かでのみ生きている女の名前が、重要視されなかったのは、千年前も、今も変わらない。「呼び名」さえあれば、事足りるのである。
「家」を出て、職につき、「個人」として給与をもらうとき、彼女の名前は、彼女自身をあらわす重要な識別票になる。
男がそうであるように、女が、家にだけ属するものでなくなってきた今、「(選択的)夫婦別姓」が問題になってくるのは、当然のことなのであろう。
もっとも、「夫婦同姓」になったのは、明治時代になってからのことで、せいぜい100年の歴史しかない。庶民は、「姓」を持たなかったし、「姓」を名乗った武士たちは、別姓であった。源頼朝の妻は、「北条政子」。彼女が「源政子」と呼ばれたことは、一度もない。

「夫」の姓を名乗っていたら、先述の賢子さんは、大変である。藤原宣孝と紫式部の娘である彼女の、「夫」(愛人)は、記録にあるだけで、まず藤原定頼、次が、 藤原兼隆(この人の子どもを生んで、乳母になった)、そして優秀な乳母として出世 し(従三位まで)、30数歳のころ、高階成章と結婚したという。若いころは貴公子らとしっかり恋をし、仕事の業績も上げて立身し、中年になって大金持ちの高級官僚と結婚をして身を固めた、という女性である。

 

 

 

 

3月18日
「自分らしく」の鎖  (カナコ)

 

与党が「夫婦別姓プロジェクトチーム」を立ち上げ、法務大臣も 「世論を聞いて、今年中に検討を始めたい」というコメントをして、夫婦別姓導入の兆しが見えてきた。
この法案、国民全部が別姓夫婦になると誤解されがちだが、あくまで選択制。「同姓でも別姓でも、お好きな方をどうぞ」というものである。

女性問題・男性問題に長らく取り組んでいる人から、「この法案が通ったら、当然、旧姓を名乗るんだろ?」と問われた。「私自身は旧姓に戻る気はない」と答えると、何とも複雑な表情。
結婚改姓してすでに長く、今の私のアイデンティティは、現在の姓になってから培ったもの。旧姓時代の私は、「白無垢で彼のところに行くのよ」と、目をハートマークにしていたし、当時の価値観は母親のコピーにすぎなかった。
そのころの「自分」を否定はしないが、旧姓に、さほど懐古の情があるわけではない。少なくとも、「今の私」の方に愛着がある。

私に旧姓に戻るかどうかを尋ねた男性は、民法改正や人権の問題に造詣が深く、それゆえに「自分が自分らしく、妻が彼女らしく生きるため」には、別姓が不可欠と 信じていた。しかし、そう信じる心のどこかに、「同姓でいる今が心地よい」と感じる自分があり、「同姓に拒否感を示さない妻」がいて、その矛盾が後ろめたくてならなかったと言う。

私たちは、「女らしく・男らしく」「母らしく・妻らしく」という様々な縛りから解き放たれたいと望んできた。それらの「思い込み」から解放されて、「自分らしく」生きなければならないと考え続けてきた。
しかし何時の間にか、その思いだけがひた走り始めて、今度は「自分らしく」という太い鎖に、がんじがらめになってしまったのかもしれない。 これは、「〜らしく」の副作用。

夫婦別姓の導入は、「別姓にしたいと願う人の邪魔はしない」という程度のこ と。
現在、病院で戸籍名を呼ばれるのがイヤで、39度の高熱が続いても医者には行かな い人がいて・・・パスポートの戸籍名がイヤで、終生海外旅行にはいかないと誓った人がいて・・・そんな人が幸せになれる方法が別姓結婚ならば、それを止める理由はないという程度のこと。
別姓だけが、アイデンティティの発露ではない。

「別姓夫婦は家庭を不幸にする」と声を大にした議員がいたが、家庭の幸せは、家族の一人ひとりが幸せになってこそ訪れるもの。幸せの「形」は、人それぞれ。別姓は、そのたくさんの「形」のなかの一つ。
大上段に振りかぶらないで、自然体で受け入れたい・・・受け入れることのできる社会でありたい。

 

 

 

 

3月28日
村いっぱいの  (カノコ)

 

桜もほころびだして、春が来た。春休みになったせいだろうか、 子どもの姿をそこかしこで見かける。
この季節、私は江戸時代の俳人、一茶のこんな句を思い出す。
   雪とけて 村一杯の 子どもかな

長い北国の冬が終わりに近づいたことを、戸外にあふれ出す子どもたちであらわした句である。
ここは冬の寒さが厳しい北国ではないものの、寒い間は子どもを見かけることが少ない。中心市街地のため、少子化が著しいからでもあるだろうが。
そのためによけいに春休みの暖かい日中、めずらしい子どもの姿が目に付くのだろう。

子どもたちが遊んでいる。
がやがや・わやわや・ばたばた・ごちゃごちゃ・べとべと・どろどろ。
唐突・でたらめ・不規則・無秩序。
泣きわめき・やんちゃ・わがまま・いたずら。
それは、大人の「予想」「期待」に沿わない動きである。
「ちゃんと、いうことを聞きなさい!」という大人の叫びは、なかなか聞き入れられない。
そういう子どもたちへのいらだちを、大人は感じずにはいられない。
だからこそ、大人の意に反しないように子どもを「しつけ」ようとする。
しかし、大人の期待通りに「しつけ」られた子どもは、本来の子どもらしさを失ってしまう。

雪が解けても、外へ飛び出さず、家の中で、静かに遊んでいる子どもたち。
どろんこ遊びも、「冒険」もしないいい子たち。
それがほんとうに「子ども」なのだろうか。