3月31日

マーケットいっぱいの    (カナコ)


 

・・・と言っても、『マーケットにわらわらと出没する子どもたち』という話ではない。最近、マーケットにしばしば見かけるようになったのは、男性たちの姿。
幼子を乗せたワゴンを押しながら、妻とあれこれ品選びをしている若い夫。同じくワゴンを押してはいるけれど、黙々と荷運びだけに徹しているだけの夫。鍋物らしき食材ばかりをカゴに入れている、単身赴任らしき男性。そして、カゴの底にお刺身や酒の肴をわずかに並べた、一人暮らしとおぼしき高齢の男性。

しかし本日出会ったのは、そのどれにも属さないタイプで、もしかしたら身の回りに最も「いっぱい」かもしれない男性。
場所は、マーケットの『どれでも1グラム1円。パックに詰めてお持ちかえり』のコーナー。
私が3〜4点選んでいる隣で、茄子の揚げ煮を詰めていた女性…その背後で、大きな声があがった。
「何で俺が、ヒトの煮た物を食くわんならんのや! エッ? 何で俺が、ヒトの煮た物を食わんならんのやて?!」

ヒトは「人」ではないだろう。タマやポチが煮物をすることはないのだから。
とすれば、ヒトは「他人(ひと)」。要するに、自分用の惣菜は妻の手で作られるべきだと抗議しているわけである。彼にとって、妻は「他人」ではない。
彼は、自分のためだけに料理されたものを食したいと望んでいるのか、あるいは添加物や雑菌などが気になるのか。
その抗議の声に微動だにせず菜箸を動かし続けている妻に代わって、私が答えた。 「イヤなら自分で作りなよ!」「文句言うならついて来るなよ!」
もちろん、声になど出せないから、まなざしに「思い」を込めただけなのだが…。

外食産業最大手のマクドナルドが一番ライバル視しているのは、モスでもミスドでもケンタッキーでもなく、『持ちかえり惣菜産業』なのだそうな。消費者を外に出そうという企みと、家に戻そうとする商法とは、利害関係が大きく相反するという。消費者の私としては、どちらも充実してほしいのが願い。

シンガポールの家庭にホームステイした時、台所に生活臭のないことに驚いた。
ほとんどが共働きのため、外食か「持ちかえり」が日常のパターンで、いたる所に手軽でおいしい屋台がひしめいている。そこで食べなくても、ビニール袋(当地ではプラスチックバックという)で汁物すら簡単にテイクアウトする。女性が食事の準備に心を煩わせることなく働ける背景には、その屋台の存在が大きい。
男性たちにとっても、「今日はアンタが当番よ」と割り当てられるより、ずっと気楽ではないだろうか。帰宅したあとプラスチックバックを器に移して、一緒に食事する家族には、ゆっくりと談笑できるゆとりがあると感じたのは、台所が苦手な私だからなのか。

手の込んだ料理をしたいなら、それを楽しんでやればいい。しかしそれが「妻の義務」と見なされる時、女たちの声なきストライキが始まる。

 

 

 

 

4月7日

気配り   (カナコ)

 

昨日、大型電気店へテレビのアンテナ部品を買いに行った。たまたま在宅していた夫も、自分の買い物があるからと一緒に出かけた。
店員さんに、アンテナの接続部分の扱い方を尋ねようとしたら、彼は私をやんわり目で押さえて、「ご主人に説明させていただいた方が…」と、シェーバーに気をとられている夫を強引に振り向かせて話し始めた。
「女に電気は分からない」と信じ切っている彼の笑顔には、気配り満点の自信があふれる。
そうかァ、女は、ニッパーやドライバーが使えない事になっているのか。

先日、戸籍に関する学習会に使うために、市役所の窓口で「婚姻届と離婚届をください」と頼んだ。
窓口担当の中年男性の眼が、一瞬、点になる。
「あのゥ…両方ですか? はァ…両方ですか。 まァ…いいですが。」
ここで、「資料としてほしいのです」と、ちゃんと説明すればいいのに、いかにも “訳あり”の表情で立っている私も悪い。でも、ついでだからと、さらに追い討ちをかけてみる。「両方、一度に出したいのです。」

引き出しから書類を出しかけていた彼の手が、また一瞬固まる。
「エッ? 一度に? 何でまた…? まァ…いいですが。」
市民のプライバシーには関わるまいと、必死で無関心を装う彼。
「ペーパー結婚と、ペーパー離婚なんですよ」と、またまた、いらんことを付け加える私。
(ねえ、もっと色々聞いてよ)と、まなざしで訴えてみるのだが、彼は、頭上に舞い踊る「???マーク」を振り払って実務に徹すると決めたようで、クールな吏員へと立ち直ってしまった。

渡してくれた用紙は、婚姻届2枚に、離婚届1枚。
「おめでたい事は、もし間違えて書き直したりすると気分が悪いでしょうから、2枚差し上げますが、離婚届の方は1枚でいいですよね」
ここで、“本来の気配り”のできたことに満足した彼は、ようやくにっこりと微笑んだ。
そうかァ、離婚がおめでたいと思う人は“いないことになっている”のか。

刻々と変わる世界状況の中で、昨日の常識が明日の常識とは限らない世の中。
それなのに、昨日の常識に凝り固まっているのは、(電気店の定員さんより、そして市役所の窓口さんより) むしろ日本のトップかもしれない。
自民党総裁選に関わる人々のコメントに、「男なら〜しなきゃ!」というフレーズが飛び交う、今日このごろ。

 

 

 

 

4月9日

花まつり   (カノコ)

 

昨日、4月8日は花まつりだった。岐阜のあたりでは、月遅れで5月に行うところが多いが、釈迦の誕生を祝う潅仏会(かんぶつえ)である。
お寺に、花で飾られた御堂を設け、堂の中に水盤を置き、真ん中に右手を挙げた誕生仏を安置してある。その仏像に、水盤の甘茶を潅(そそ)ぐという行事である。
小さいころ仏教系の保育園に通っていた私は、「花まつり」には白い象を園児みんなで引っ張って町を歩き、水筒に甘茶をもらってきた記憶がある。その時は、なんの行事かも定かでなかったのだが。

生まれたとき、釈迦はこの像のように右手を高々と挙げ、「天上天下唯我独尊」 といったという。
「唯我独尊」は、ひとりよがり、うぬぼれ、という意味で使われることが多い語であるが、本来の意味は、「この世界に我よりも尊いものはない」ということらしい。

私という存在は、この世でたった一人。存在している、というそれだけのこと で、それはすばらしいこと。
まわり中を祝いの花で飾られ、甘茶を潅がれ、誕生を祝われるのは、釈迦だからではないはずだ。この世に生まれてきたものは、すべてそうやって祝われ、存在を祝福されるべきである、というのが、「唯我独尊」ということなのだろう。

もっとも、「女」は「人」のなかには入らなかったのかもしれない。「女人は往 生できない存在」なのだから。
女は、男より劣った存在である、という刷り込みは、はるか昔から今に至るまで、繰り返し行われてきている。
女には、電気のことはわからない。女はそうではないが、「男なら〜しなきゃ!」ということが当然ある。何たって、男には責任、というものがあるから。

新学期。この春学校は、子どもたちをどう迎えたのだろうか?
新しい教室に座ったとき、教室の右と左に、女の子と男の子が別れて座っている風景が、まだふつうだろうか。
身体測定前の、最初の席は、たいてい名簿順だ。名簿の前の方は男の子、後ろの方が 女の子だと、こういう風景が当然出現する。男の子は、いつも女の子の前に立つものという刷り込みではない、と言い切れるか。
新学期から、男の子と女の子が入り交じって座っている教室は、「男女混合名簿」ということが実施されているところだ。男だから前、女だから後ろではなく、「アイウエオ順」だけで、名簿を作るとこうなる。

 

 

 

 

4月15日

逃げ場   (カナコ)

 

このところ、3つの番組で立て続けに「主婦の片付けられない症候群」という放送を見た。
玄関には人がやっと通れる程の隙間があるだけ、台所には食器が山積みとなり、部屋は脱ぎ捨てられた服や紙袋や新聞紙で畳が見えない・・・。

私も、家事は好きではない方。さすがに流しに食器を放置はしないが、洗い物は最小限にしたいし、掃除機も必要最小限しか手にしない。
家事を女の仕事とは思わないが、自分の部屋すら整然とできないのだから、人間として若干の後ろめたさがあるのは否めない。
しかし、この番組を見ていて、「私も、○○症候群の軽症かもしれない」と思うと、 妙に気が軽くなる。安堵してしまう。
「人間性」の問題ではなくて「病気」なんだという発想は、この上のない逃げ場。

しかし、この「逃げ場」は、諸刃の剣。
近所に、いわゆる幼児虐待をしてしまうおかあさんがいる。
彼女は、怒りが最高潮に達すると、「ここに入りなさい!」と大型スポーツバックに子どもを詰める。そして「川に流してしまうよ!」と脅す。そんな自分がイヤで、彼女はついにバックを捨てた。
しかし、やはり子どもへの怒りを押さえられない彼女は、バックはなくても、「ここに入りなさい!」と、ゴミ袋を広げてしまっていた。

「私は子どもなんか産んではいけなかったんです」と嘆きながらも、彼女は、その行為の背景を一緒に考えようとする相談員に言った。
「でもこれって、私が悪いんじゃないんですよね。私、心の病気なんですよね」
自分の言葉に元気を取り戻した彼女は、「私、大丈夫ですよね。叩いたりもするけど、ホントは子どもを愛してるんだから」と微笑んで、帰って行った。

 

 

 

 

4月21日

命の値段   (カノコ)

 

人の命には、値段が付けられない。それほど、かけがえのない大切なもの。
が、その命が、不幸にして事故によって失われたとき、加害者は被害者に損害賠償というものを支払う。
残された遺族の精神的な苦痛に対して支払われるのが「慰謝料」。そして、被害者が元気だったら得られたはずの賃金にあたるものとして支払われるのが「逸失利益」で ある。

例えば、集団登校の列に車が突っ込んで、2人の児童が死亡したとする。その2人の性が一緒なら、損害賠償額は同じであるが、男の子と女の子であると、差が歴然とあるのだという。
すでに働いている人なら、実収入や年齢を考慮して、「逸失利益」額が決定される。 高収入を得ている男性と、無職の女性でその額が違うのは、納得できることである。 しかし、まだ働いていない小中学生で、どうして差がでるのか。

それは、「逸失利益」の計算方法による。まだ働いていない子どもの場合は、この基礎の数字に、厚生労働省の「賃金構造基本調査」のデータを使う。99年調査で、男子約562万円。女子約340万円。
この開きが、「命の値段」の格差を生んでくるのである。現在の、男女の平均年収の差が、子どもの命の値段にまで及んでいるのだ。

「男女は平等である」
が、この命の値段の格差は、男女は決して平等には扱われていない、ということを示している。
「親にとって子どもの命は金銭には換算できるものではない。しかし男子、女子と区別して育てたわけではないのに、なぜ死亡したら機械的に『女子だから』と扱われなければならないのか」
という、娘さんを事故で亡くした経験を持つ親の言葉は多くの遺族に共通する思いだろう。

「男女は平等である」
と真に言えるようになるのは、「子どもの命の値段」が男女一緒になったとき。 車が突っ込んできたら、男の子を前に出すと、「得」だよ、なんてブラックジョーク が昔話になるときだ。