5月16日

エプロン談義  (カナコ)


 

朝のテレビで、ニュース・芸能ネタではなく、日常生活のあれこれだけを取り上げる番組がある。その番組の後半が、一般主婦とレギュラー・ゲストが組みになって参加するクイズコーナー。
そのコーナーでは、解答者が全員必ずエプロンをつけることになっている。

ある日のゲストが、東北弁のうまい、性格俳優のあき竹城氏。
彼女は、クイズが始まると同時に、憮然とした表情で司会者に尋ねた。「ねえ、何でエプロンしなきゃいけないのよ!」
司会者は、思ってもみない質問にたじろぎ、彼女の意図が理解できないまま、しどろもどろに答えた。「だって、だって、このクイズのタイトルが、“ママダス”だからですよ」

その日彼女は、「ママ イコール エプロンなんていう発想は、おかしいわよ !」と言いたかったわけではない。
彼女の思いは、おそらくもっとストレートなもの。「私は、ゲストとしてドレスアッ プしてきた…だからもし、汚れる作業をするのならエプロンは当然のこと…しかし、 ただボードに解答を書くだけのコーナーに、何ゆえのエプロンなのか…?」

エプロンは、カテゴリーの象徴ではない。衣服を汚さないためにカバーするも の。
だから、台所で付けていたエプロンは、玄関で客を迎える時には必ず外すのがマナーであるし、本来、買い物などの外出時に着用すものではない。
・・・・・ということは、逆に、エプロンさえあれば、いつでも・誰でも“汚れえる かもしれない作業”ができるはず。
会社の給湯室に備え付けのエプロンがあれば、高価な背広着用の男性も、流しに立つのに何の心配もないことになる。
家庭の台所にも、“ママ用フリルひらひらエプロン”でなく、「これは家族兼用エプロン」と公言したものを掛けておけば、夫婦の仕事分担も、結構変わってくるかもしれない。

 

 

 

 

 

5月17日
地球にはまだ、女の力が眠っている   (カノコ)

 

「ドリンク剤」といえば、24時間戦う「企業戦士」のものだった。だから、たいていは、がんばろう!ってかんじで、飲み干す男性のCMばかり だった。女性がでてきても、「どうぞ」とエプロンがけで優しく差し出す「妻」とい う役割だけ。

ところが最近、「働く女性」がドリンク剤を飲み干す、というCMが登場してい るのに気づいた。
♪ハイハイハイ、日が昇る〜 ハイハイハイ、朝が来る〜!
という軽快なメロディーにのって、朝方、まだ薄暗い駅のホームに一人立つOLが映る。
「好きな仕事を選んだ」
「言い訳できないと思った」
で、ドリンク剤を飲み干す彼女。
画面には「地球にはまだ、女の力が眠っている」というコピー。

夜のオフィス街、というパターンもある。
一人歩くOL。「仕事でいっぱい傷ついた」
「前より仕事が好きになっていた」
で、ドリンク剤。「「地球にはまだ、女の力が眠っている」というコピー。

1985(昭和60)年5月17日。男女雇用機会均等法が成立した。
職場での男女差別を撤廃する目的で成立した法案だった。様々な問題点はあるものの、あれから16年、確実に働く女が増えてきた。
99年4月からは、募集・採用についても差別を禁じた改正均等法も施行された。
「職場の花」でも「補助職」でもなく、責任を持って仕事をこなす女性が増えてきた。
「疲れる」のは、男性ばかりではない。女性は、家庭でドリンク剤を差し出すばかりではない。
そんな現状に、やっとCMが追いついた、というべきか。

小泉内閣では、史上最多の5人の女性が閣僚になっている。
皇位の継承者は男性のみ、という皇室典範の見直しも、論議されるようになってきた。
「地球にはまだ、女の力が眠っている」。
そのことが、やっと見えてきた、というべきか。

 

 

 

 

 

5月18日
姓? 名?  (カナコ)

 

小泉内閣での5人の女性が閣僚で、いま注目の的は、何と言っても田中真紀子さん。 彼女に関する報道で、気がつかれただろうか。『真紀子外相』『真紀子節』『真紀子 批判』・・・・・
紙面やテレビに踊るのは『田中』という姓ではなく『真紀子』という名前であるのは、単に“有名な父親との区別”だけであろうか。
あるコメンテーターが、「真紀子さんは、今やアイドルだ」と言ったが、小泉純一郎さんが今いくら国民的であっても、『純一郎首相』という報道がされることはない。

昨年、オーストラリアで金メダルをとった『高橋尚子』選手の時も、報道のほとんどが『尚子 金!』であった。あの時、柳ヶ瀬を飾る垂れ幕もすべて『尚子 金』の文字ばかり。
でも、これがもし男性であったなら、この垂れ幕は『高橋 金』になっていたに違いない。

女はいずれ嫁ぐもの…そして夫の姓になるもの…という思い込みが、女性を『姓』 ではなく『名』で呼びあらわす風習を作り出してしまった。そして、「女は、名前で呼んだ方がかわいいし、親しみやすい」という思い込みが、それに加わる。
しかし、真紀子さんは、“田中真紀子”で一人の人。尚子さんは“高橋尚子”で一人の人。

夫婦が別々の姓を名乗ってもよいという法改正も、そう遠い日ではない。そうなれば、姓と名前でワンセット。「男性は姓、女性は名前」という習慣も、次第に消えていくだろう。
野田聖子さんは、彼女の婚約者に「女性も仕事を持つことは大賛成だが、姓だけは鶴保聖子になって」と言われて悩んでいると聞くが、彼女が“野田聖子”のままで生きていきたいと望むのは、そんなにわがままなことではないはず。
だって、現に今、日本の98%の男性は、生まれ育った姓と名のまま、彼の一生をごくごく当たり前に生きているのだもの。

 

 

 

 

 

6月3日
運転手は?  (カノコ)

 

ボーナス月のためか、車の宣伝が目立つ。
何気なく目に入るCMだが、ちょっと気をつけているといろんなことに気づく。
その車を運転しているのは誰?

”運転手は君だ。車掌は僕だ”という童謡があったが、少し前まで、ファミリー向けの車を運転しているのは「父」であった。「母」は助手席に座っているものであった。
いわゆる若者向けの車も、ハンドルを握るのは「彼氏」で、「彼女」は助手席に乗る存在であった。
女性が運転しているのは、軽自動車のCMぐらいだった(このときはたいてい女性が 一人)。

が、最近少し違ってきた。
ファミリーカーを運転するのが「母」である、というパターンがでてきた。
と思っていたら、今シーズンは、若者向けのスポーツカーを運転する女性というのがでてきた。
「母」の運転の時、「父」は乗っているが、「彼女」の助手席には「彼氏」は乗っていないのだが。

運転するのは男、女は助手席に乗るもの、という「常識」が確かに一昔前まではあったなあ、と思い出す。
35歳を過ぎて、私が免許を取ったとき、夫は、周囲の人に、「心配でしょう」と言われたという。
運転に対する不安だと思っていた彼は、その人の次の言葉にびっくりしたという。 「一人で、どこへでも行けるようになると、心配でしょ」。
妻は、夫の助手席に座るもの。その思いこみから離れられない人はまだ大勢いるよう だ。そういうパターンでCMを繰り返し作る会社もある。

しかし、道を通り過ぎる車の運転手が、かなりの割合で女性であることは誰でも知っている。タクシーの女性運転手も、工事用大型車両の女性運転手も、もう珍しい存在ではない。
夫しか運転できない家族での遠出。夫は、家族を運んでいる、という満足感は味わえるかもしれないが、一人で運転する、という疲労も責任も負わなければならない。
妻も運転したら、交代で運転できる。責任も、疲労も、お互いでシェア(分かち合 い)できる。
女性の運転が当たり前の時代だからこそ、車のCMも代わってきたのであろう。
自分だけが運転しなければというのではなく、時には、同乗者に「運転、代わって」 といえるスタイル、これが21世紀型ではないのかな、という気がする。

 

 

 

 

 

6月4日
喪主は?  (カナコ)

 

私は女きょうだいばかりの長女。(このあたりの日本語が不思議。“女姉妹ばかりの長女”という言葉はないし、“女兄弟”と書くと意味が通じない)
年老いてきた私の母親が、最近、繰言のように言い続けているのが、自分の葬儀の喪主を誰にするかということ。喪主は「男でなければならない」という確固たる信念を持っている彼女は、一番近くに住む長女の私が喪主でいいという娘らの言葉に耳を貸さない。
間の悪いことに、たまたま私は結婚していて、母親の望む“喪主資格を持つオトコ”である私の夫が手近に存在しているのと、彼がまた「僕はどっちでもいいよ」という意思表示をするため、彼女の“オトコ喪主信仰”に水を差すきっかけがない。

確かに、“喪主はオトコ”という慣習は結構根強く、それに逆らうのは生易し いことではない。
先日40代で亡くなった男性の葬儀に駆けつけた時、葬儀の先頭に立っていたのが、10歳になる長男であるのに驚いた。
これは、町内会の意向であったという。「後継ぎがいないならともかく、お宅に は、ちゃんと御長男がいるではないか」と言われた妻は、そこに住み続ける以上、町内の慣習には逆らえず、幼い息子を喪主にせざるをえなかったと言う。

そんな慣習の中で生きてきた母親世代だからこそ、「喪主役には、娘より娘婿の方が格上」だと信じて疑わない。
だが、わが子がありながら、自分の最後をあえて他人に託すことに、彼女の心は揺らがないのだろうか。
慣習に従うならば、喪主が娘婿ということは、葬儀御礼の葉書に書かれるのも“彼の名前”と“親戚一同”の文字のみで、本来、親を送るはずの娘らの名前はどこにもな いことになる。
しかし、「それでは何となく寂 しい」という思いがぬぐえない彼女の心の行き着く先は、「何で男の子を産まなかったのか(産めなかったのか)」という自戒である。

そして昨日、彼女からのTEL。
「今日、近所のお葬式に行ったらね、喪主が娘さん二人の連名になっているのよ」 電話の向こうで、彼女の声は弾んでいた。
だからといって、自分もそうしたいというところまでの“心の切り替え”はできて いないようで、「時代は変わったのかねえ。こういう家が増えるといいね」とい う、実に消極的な発言で終わった。

車の運転席に座る『女性』の画像が、違和感を与えなくなった時代。
喪主席に座る『女性』の姿も、ごく普通に受け入れられる日も遠くない・・・・・ という私の言葉に、彼女は「もしかしたら娘は、自分の遺言を破ってとんでもないアクションを起こすかもしれない」という不安に駆り立てられたらしく、「娘に常識破りをさせてはならない」という切なる親心は、今、彼女の命長らえさせる新たな支えになっている。