9月6日

メガネ   (カノコ)


あまりの暑さに、「残暑」が懸念されていたものの、実際は9月に入ったとたん、すっかり秋めいてしまった。
あまりの季節の変化の鮮やかさに、もう少し、「夏の残り香」を味わってもよかったかな、なんて、人間は勝手なものである。

どうしてだろう、と思っていることがある。
TV(ドラマ以外の)番組に登場する女性は、メガネをかけていない。
アナウンサー、アシスタント、キャスター等々、メガネをかけている男性はいるものの、女性はいない。
彼女たちがインタビューする街角の女性の何人かは、メガネをかけているし、ゲストで出てくる視聴者の中にも、メガネをかけている方はいる。

こんなことを思ったのは、松たか子が出ている保険のCMを見てからだ。
街頭のTV中継車の中で、スタッフと打ち合わせをしている(らしい設定の)時には、メガネをかけている彼女が、外へ出て、カメラに向かうときには、メガネを外しているのだ。
何でだろう、と思って注意をしていると、メガネをかけた女性があまりにもいないのである。
老眼鏡をかけてニュースを読む男性キャスターはいても、その年齢の女性キャスターがTVに登場することがないからだろうか。TVの女性アナウンサーが、年齢を理由に番組から降板させられた、という記事を前に読んだことなんかを思い出す。

しかし、シニアグラスには縁のない年齢でも、同じである。近視用メガネが必 要な人の割合は男女そんなに変わらないはずなのに。
近視の方はコンタクトレンズを使用しているのだろうが、それにしても、男女の差が気になる。
メガネをかけて登場する女性アナウンサーが一人もいない。

「メガネ」は「女らしくない」と言われていた時代があった。
「新聞など女が読むのはけしからん」と言われていたころである。
女が文字によって、男が知らない知識を得ることが許されない時代。女は、何もわからず、男の言うがままに従うのが「美徳」とされた。

そういえば、TVドラマで、「メガネをかけている女性」というのは、役どころが決まっている。
彼女は、「女らしい」という範疇には入らない。

秋の夜長。さあ、読書でもというときに、メガネが手放せなくなった。
老眼鏡をかけてニュースを読む女性キャスターが、登場する日が来るのだろうか、なんて「秋の夢」を見る

 

 

 

 

9月10日

タイ考    (カナコ)

 

読書の秋、そして食欲の秋。
タイ料理に引かれた友人が、本場の屋台料理を食べたいと、フリーの旅にでかけた。
バンコク市内であちこちの屋台を巡り、ココナッツ風味のパンケーキや、香草の強い米料理、季節はずれのドリアンなど十分楽しんだあと、最終日くらい、のんびりホテルで…と、食堂のバイキング料理をのぞいたと言う。

そのホテルは、各国の旅行会社がツアー客のために利用する所で、アジア紹介のサー ビス心か、所狭しと並んだ料理の中には『ジャパニーズフードコーナー』。
そこに、スペイン系カップルの会話が聞こえたそうな。「OH, KIMJI!  JAPANESE FOOD!」。『キムジィ』と書かれたお皿は、明らかにキムチ。
彼女いわく。「韓国はお隣さんだから、これは許せるのよ。ともかくキムチは実存するのだから。でも、どうしても許せん!と思ったのは、巻寿司の具が人参だったこと。人参だけだったのよ。これは事実誤認! 同じアジアなのに、何でこうなるの?」

そういえば、私が「同じアジアなのに、タイを知らなかった!」としみじみ思ったのは、3年前。タイのNGOを訪れた時だった。
仏教国タイで、僧になるのは一族の誉れだが、それは男だけの特権で、女性は裏方の生き方しかできない国…と思い込んでいた認識不足は、「バイキング事件」どころの話ではない。

確かにタイは、「男の生き方、女の道」という意識は強い。「男にとってSEX衝動は当然だから、買春は必要悪」と言い切る大学教授さえいる。
しかしこの国は、日本政府がまだ興味すら示していない「女性差別撤廃条約選択議定書」にすでに批准し、この国の国会には、女性の「男女平等大臣」がいる。そして、 「女性の地位向上委員会」が活躍する。
現実が大きな問題をかかえているからこそ、その現実を何とかしようという女性パワーは、日本の比ではない。

日本の女性は、中途半端に家計を握っているために、“主婦には銀行はお金を貸して くれない(一人前とは認めてくれない)”という現実に気がつかないままいる。
夫が中途半端にゴミを出してくれたり、「熱があるなら寝てていいよ。俺は外で食べてくるから」と言うから、“家庭的責任を分かち合う”という問題が見えないままいる。

今、岐阜市に「男女共同参画条例」ができようとしている。これは、“男らしく・女らしくという慣習を、職場や家庭や地域や学校すべてで見直そう。そして、仕事も家庭も、人生まるごと半分こしよう。企業もそれに協力すべし”という条例。
条例で何が変わり、何を変えるのか…岐阜市の女性パワーの見せ所。

 

 

 

 

 

9月16日

文学○○   (カノコ)

 

「女心」と来たら「秋の空」、と受けるのが、いわゆる「世間の常識」である。
そこには、「どうして?」という理由はない。そういうものと大勢の人が何となく 思っている、それだけのことである。
「変わりやすいもの」のたとえなのだが、「女心」の方が「男心」より変わりやすいという特別の証拠があるわけでもない。
女の心変わりを恨んだ男のくやしまぎれの捨てぜりふ、にすぎなかったりして。

同じように、何となくくっついてしまう「世間の常識」がある。
「文学」なら「少女」。「科学」なら「少年」。
「科学少女」とか「文学少年」といういい方はまず聞かれない。
女性の科学者も、男性の小説家も現実に存在しているのに、だ。
しかし、何となく「科学」は少女には向かない、と思っている人がいる。

物理学者である米沢富美子氏が、こう書いている。(9月14日:朝日新聞夕 刊)
「文学や音楽の分野に比べ、科学の分野で女性が少ないのは、女性は科学に向かない という世間の常識を少女たちが幼児から刷り込まれる結果だ。私はそう考える。この刷り込みは何世代にも亘っているので修正に時間がかかる。」
子どもの時、「理科」に強い興味を示す女の子は、それをほめてもらえないばかりでなく、認めてももらえないことが多いということだ。
「理数」に強いのは、やっぱり男の子、という思いこみは、根強い。
「理数」に強い女の子は、「女らしくない」とさえいわれることもある。
そういう思いこみが、どれほどの女の子の「将来の夢」を阻んできたことか。

女の子も、男の子も、性別によって進路を自由に選択できない仕組みを改めていこう、というのが、「ジェンダー・フリー」の考え方である。
「女だから」「男だから」といって、夢をあきらめなくていい時代。
それは、待っているだけではやってこない。
いろんなところで、いろんな人たちが、その実現に向かって歩んでいる。
「刷り込み」「世間の常識」に縛られている自分の意識を見直すこと、それも第一歩である。