9月18日

テロその後  (カナコ)


 

男だから・女だからというだけ理由で、仕事を分けないで・・・ と、どれだけ言いつづけてきたことか。
そんな矢先のテロ事件。ある男性は、勝ち誇ったように言った。「男女同権の世の中だ。女も戦争に行ってもらわなきゃ」

ワシントンで旅客機が突っ込んだペンタゴンの隣に、かの有名なアーリントン墓地がある。ケネディさんのお墓のある所。
ここは国家に貢献して命を失った人の墓地で、無名戦士の墓もきれいに並んでいる。 墓地内専用の巡回バスに乗っても、半日では廻りきれないほど広い。
この墓地の真中に、「ウイメンズ・ミュージアム」という立派な建物がある。ここは女性戦士に関する資料館で、彼女たちがいかにすばらしい活躍をしているかを紹介し ている。兵士として女性でもできる仕事は、239もあるという。
ミュージアムの出口には、見学者のコメントを書くノートがあり、そこには、「すばらしい! 誇りに思う! 自分も貢献したい!」などの言葉ばかりが並んでいた。

しかし、男女平等をかかげるということは、女性の兵士を作ることなのか。「戦争」 そのものの是非を、何故、初めに問わないのか。
“国を守る”という大義名分は、何物をも押さえ込んでしまうけれど、本当に国を守ることができるのは、軍事力や軍備ではなくて、子どもたちへの教育力と、それを支える経済力ではないだろうか。
「報復」のシーソーゲームからは、何も生まれはしない。

この青空の下、中東で、また多くの女性や子供たちの命が失われようとしている・・・。

 

 

 

 

 

9月22日

性別役割分業   (カノコ)


平家全盛の時代、「打倒平家」を掲げて、各地でいろんな勢力が名乗りを上げた。
その後幕府を開く源頼朝もそうだが、信濃で名乗りを上げ、最初に都に乗り込んだのは、木曾義仲であった。
義仲は木曾から出兵してくるときから、ふたりの女性を連れてきていた。そのうちのひとりが「巴(ともえ)」。
彼女は、義仲最期の時まで共に戦っている。彼女はきわめて強い「精兵」であった。
平家も女性を連れて、都を逃れ、西国に落ちていくが、その女性たちは、決して共に戦うことはしない。戦いの中で嘆き悲しんでいる、十二単の姫たちである。

都では、この当時、すでに貴族層では「性別役割分業」がおこなわれていた。
女は屋敷の奥深くでひっそりと、男が訪れるのを待っている存在であった。顔を見せてもいい男性は、肉親と夫のみの暮らしである。
男に交じって、馬を乗りこなす、髪長く色の白い美女、巴の存在は、都の人を驚愕させたであろう。
しかし、彼女は、信濃ではごくふつうの女性であった。まだ、かの地では「性別役割分業」が一般的でなく、強いものは男であろうと、女であろうと、「精兵」であったのである。彼女は、義仲の乳きょうだいであり、妻であり、そして武将であった。

「男女共同参画社会」は、女も男と共に戦える社会。女も「兵士」になれる社 会。
それは、やはりそうだと思う。「アレー」と衣で顔を押さえて泣くだけではなく、馬に乗り、弓を引く女が存在できる社会。
(「戦争」や「闘い」を望むわけではない。そこのところは誤解なさらないで欲しいが)

いま世界の注目を集めている「タリバーン」は、独特の厳格なシャリア(イス ラム法)をとっている。バーミヤン大仏の爆破は、その一つ「偶像崇拝禁止」に基づくものだという。
女性の就労禁止も原理主義の掲げるものであるという。
「イスラムの聖地が、女性兵士によって汚されている」ということを語るビンラディン氏のインタビューをTVでやっていた。
タリバーンの女性たちは、肉親と夫以外の男性に顔や足を見られることのないように、厚いベールで身体を覆っているのだという。TVに映し出されるタリバーンたちは、だから、すべて男性である。女性が、「外」にでることはない。
(人口が一番多いイスラム国であるインドネシアの大統領は、メガワティ氏。女性である。だから、まさに「イスラム」でもいろいろあるのだが)

これで最期、というとき義仲は、巴を退ける。「おのれはとうとう、おんななれば、いづちへもゆけ」
何度も何度もいわれ、やむを得ず巴は、ふたりの敵の首をねじ切った後、鎧を脱ぎ捨て、落ちていく。
その後彼女がどうなったのか、平家物語は語らない。

 

 

 

 

9月25日

専業母  (カナコ)


マレーシアもイスラムの国。街ゆく女性はみな、スカーフで髪を包んでいる。
イスラム国では、国の法律の前にまず宗教法がある。そこには、「妻は、夫の言葉に従うこと。従わなければ、夫は妻に口頭で注意する。それでも従わない時は、軽く 殴ってもいい」というような内容があるらしい。だから、夫から妻への暴力がエスカ レートしていたマレーシアでは、すでに5年も前に『家庭内暴力禁止法』、いわゆる DV防止法が制定されることになった。その制定に向けたマレーシアの女性たちのパワーは、大きなものだった。
日本の多くの女性に、そんなパワーがあるだろうか。

日本でも、このDV防止法が来月から施行される。しかしこれは、その必要性を願った女性たちのボトムアップの力で達成したものではないため、DV防止法の名前すら知らない女性がほとんど。
日本の妻は、家計を握っていたりして、中途半端に自由があるため、性別役割分業を心地よいと錯覚している場合が少なくない。いくら家庭の財務省的存在として幅をきかせていても、銀行は彼女に融資などはしてくれない・・・ということは、社会は 一人前には扱ってくれないということなのに。
「役割分業」はいい。しかし「性別役割分業」は、対等な夫婦関係を作らない。

子どもを手元から離すことのできない専業母も、性別役割分業の悲しい結果。
各地で開かれる講演会で、「託児あります」の文字が当たり前になってきたのに、その「託児」が利用できない母。
意を決して子どもを託児室に置いてはみても、気になって、おちおち会場に座っていることができず、途中で託児室に駆け込む母。
子どもが泣いていたらかわいそう・・・なのではなくて、子どもを抱えていない自分が支えられないだけ・・・。「母」の部分をを取ったら、自分に何が残るのか・・・と。

そんな母たちに、追い討ちをかける心ないアドバイス。「子育てにかかる時期なんて、ほんの一時じゃないの」「その時くらい、何で子どものことだけ考えてやれないの」「今まで、どんな母親だってそうしてきたのよ」
そうじゃない。母親だけで子育てを担ってきた歴史はない。高度成長期と騒がれる、ついこの前までは、みんな“ながら子育て”だった。農業しながら、家内工業をしな がら、みんなで子どもを見ていたはず。
そして、ほんの一握りの「専業主婦」と呼ばれる階級には、ねえやがいて、ばあやがいて、子守りがいて、玄関番の書生がいて、草取りのじいやがいた。

「子育てを母だけに担わせる専業母のシステム」が、そして「性役割のため対等になれない夫婦関係」が、今、悲しい虐待を引き起こしている。

 

 

 

 

 

10月13日

里の秋   (カノコ)


めっきり秋めいてきた。
"静かな静かな 里の秋"という歌がどこかから流れてきたりする。
一緒に口ずさみながら「あれっ」と思った。
どうして”ああ 母さんとただ二人”なんだろう。

秋風と共に増えるのが、シチューのCM。
熱々のシチューを囲む、しあわせそうな笑顔の家族。
でも、たいていそれは「母と子」。「父」の姿はない。
つるべ落としの秋の夕暮れ。夕食の時間には、たぶんまだ父は帰れないのだろう。
特に通勤時間のかかる都会では、父が平日の夕餉を囲むのは、珍しいことらしい。
シチューを父が一緒に食べるCMなど、きっと夢物語に過ぎないのだろう。
(男性がシチューを食べているCMの舞台は、北海道。彼は、サラリーマンではない)

「父」が夕餉から姿を消したのは、高度成長期以降。
(「男は仕事、女は家庭」というシステムが一般的になったのもこの時期だ)。
それまでの日本では、父がいないということは、ふつうのことではなかったはずだ。
「里の秋」は私の子どものころからあった古い歌。なのに、どうして父がいないのか。

いつ頃できた歌なのか、調べてみた。
昭和20(1945)年12月。作詞は斎藤信夫という人である。
父は、戦争にいったのだ。だから、”ああ 母さんとただ二人”。
秋になっても、父は帰らない。
今はもう絶対歌われないだろう3番はこういっている。
”さよなら さよなら 椰子の島 お舟にゆられて 帰られる
ああ 父さんよ 御無事でと 今夜も 母さんと 祈ります。”

「里の秋」は「銃後の家族」の歌なのだ。
今も、戦場にいる父を思う銃後の家族がいる。どうか、無事でと、祈るしかない家族。
戦場へ戦士を送り込む人には、その家族の思いは今も昔もなかなか通じない。
そういえば、「24時間働けますか?」という、サラリーマンは、「企業戦士」と呼ばれた。
あったかいシチューを囲む母と子は、やっぱり「銃後の家族」である。

 

 

 

 

 

 

10月16日

遺伝子  (カナコ)


筑波大教授村上和雄氏の、遺伝子に関するユニークな解説。
「クローン羊は、卵子の核を抜いて、そこへ乳腺細胞を入れて作る。
元々、どの細胞も全ての遺伝子情報を持っているが、乳腺細胞というのは、ミルクを出す役割だけがスイッチオンになっていて、あとの役割はオフ状態のもの。
その乳腺細胞を栄養カットで飢餓状態にして緊張させ、そこに電気ショックを与えて、今までオフ状態だった全ての機能を目覚めさせたものを受精に使うという仕組み。
火事場の馬鹿力や、一晩で白髪になってしまうなども、遺伝子の中の一部機能が、大きなショックで突然オンになったりオフになったりして起こる現象。
そんな目に見えるショックでなくても、人間は、時代背景や家庭環境や教育や心の持ち方で、様々な遺伝子が、オンになったりオフになったりすることが多々ある」

最近、私の遺伝子のどこかも、何かのきっかけでオンになったのか・・・近頃、身の回りに「どこかおかしい!」と思う場面が増えてしようがない。
例えば、テレビに流れるキッチンのCMメッセージ。「対面式にこだわりました。リビングにいる家族と話しながら台所仕事ができる・・・理想ですね」こんなセリフが、私の遺伝子回路に引っかかる。
母が料理をしたり、皿を洗ったりしている間、他の家族は何をしているのか。
彼らは何で一緒にやろうとはしないのか。
一緒にやろうとしない子どもを(夫を)眺めながら、なんで妻はあんなにあでやかに微笑むのか。

これもまた、企業戦士の“銃後の妻の姿”なのかもしれない。
しかし彼女たちも、遺伝子のどこかが突然“オン”になるきっかけがないとはいえない。
少なくとも時代背景は、刻々と変わっているのだから。