11月4日

文化勲章   (カノコ)


「文化の日」の3日、本年度の文化勲章受章者が天皇陛下から勲章を手渡される恒例の親授式があった。
お昼のニュースで見た。続いて見ながら、「あれっ」なんか違うなあ、と思った。
式の後、勲章を胸にかけた受賞者が、皇居のお庭で「記念撮影」というシーンである。
なんか、地味なのである。いつもは、もう少し華やかだったような気がするのに・・・と考えて気がついた。
受賞者だけが5人、並んでいるのだ。たしか、いままでは、その後ろに、「受賞者の夫人」という人が、立っていらしたような気がする。
その「夫人」の着物(どういうわけか、みなさん和装で、色留袖なのだが)の、 「色」がないのである。

考えてみたら、その業績により文化勲章を授与されるのは、本人なのである。公的な記念撮影に「夫人」が同席しないのは、当然のことだ。
しかし、いままでは、にこやかに「夫人」が「後ろ」に控えていた。
それは、まさに、「内助の功」の晴舞台。
前の男たちを陰ながら支えた「○○夫人」の最高の栄誉の場である。

では、女性が勲章をもらったらどうなるのか?
その彼女を支えた「御夫君」が、彼女の後ろに、紋付袴で並ぶのだろうか?

今年の受賞者には、1人、女性がいらした。
社会人類学の中根千枝氏である。
今でこそ、何人もの教授がいるが、少し前まで、東大の、女性の教授は、中根氏だけであった。
はじめて、女性が東大の教授になった、というのがニュースになった時代があった。
私の持っている『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書:1967発行)の、裏表紙の写真と変わらない、気概を感じさせるお顔で、中根氏は秋の日差しの中にいらした。
だからなのだろうか?

女性が、受賞者になることを予期しないまま続いていたのが、「夫人同席」の撮影会だったのではないか。
「夫」を支えるという立場ではなく、自らの業績の結果として受章する女性が普通であるのなら、いままでのような場面はなかったに違いない。
以前、叙勲を受けられたある女性にうかがったお話。
「控え室におりましたら、係員が『はい、奥様方はそこではなく、こちらです』と言うんです。私と、もう1人の女性と言ったんですよ。『私どもは、本人です!』」 「受賞者は、当然男性しかない、って思っているんですよ。まだまだ、私たちがんばらなきゃなりませんわね、とその方と誓い合ったのですよ」

女性が、○○の妻、◇◇の母という場でしか生きられない時代が長かった。
それは、まだ続いている社会の仕組みである。
新聞の死亡記事のほとんどは、男性で、女性は、「母」か「妻」。
「夫」や「子ども」のなしとげたことではなく、自分のやったことで載る女性はほんとに少ない。
それは、叙勲の場でも同じこと。
女が、自分自身の人生を生きることができる世の中、それは夢ではない、ということを、秋の日差しの中で、真正面を見据える中根千枝氏は、見せていた。

 

 

 

 

 

11月6日

わたし色  (カナコ)


「12月31日までにランドセルを予約すれば、20%off!」 というキャッチフレーズで、大手スーパーがキャンペーンを開始した。
オリジナルのランドセルは24色。
マロン・オリーブグリーン・ボトルグリーン・パラダイスピンク・チェリーピンク・ ライラック・マリン・ネイビー等など、パンフレットに並ぶランドセルの数々は、わくわくするほど美しい。

ただし、この鮮やかなランドセルはカタログの中だけの話で、売り場に展示されているのはせいぜい、よく似た赤系3色と黒のみ。
来年になれば、これらの色が揃うのかと尋ねてみたら、岐阜では仕入れても売れる見通しはないので、注文があれば応じる態勢とのこと。
カノコさんの友人は、ブルーを注文しようとして、店員さんにひとこと、念を押されたという。
「ご希望ならば取り寄せますが、お宅のお子さんは、周りと一人だけ違っていても、それに耐えられる子どもさんですか」

考えてみると、“男女で分ける教育はしない”ことになっている小学校での中で、様々な色分けが、相変わらず続いている。
男の子は白の半ズボン、女の子は紺のブルマーと決められた体操服。
決められてはいないのに、なぜか不文律になっている、ブルーとピンクの裁縫箱や、黒と赤の習字道具入れ。
そして、そのきわめつけがランドセル。黒と赤の色は校則で決められたものと信じている子どもたちも少なくない。ましてや、ランドセル以外で登校してもいいという発想など、とんでもないこと・・・になっている。

かつて、カスタネットが学校教育に取り入れられる時、赤いカスタネットと青いカスタネットが作られるはずであったという。もちろん、男の子用と女の子用。
しかし、毎年児童数は変化するし、クラスによって男女の数も違うので、男の子用・ 女の子用を作るのは不経済ということで、全てのカスタネットが、赤と青に塗り分けられることになり、その習慣が未だに続いている。
24色とは言わないが、12色くらいのカスタネットがあったら楽しいだろうと思うのは私だけだろうか。男女にかかわらず、グリーンを持ってみたい気分の子と、オレンジがいいかなという気分の子と……そんな授業風景を思い浮かべるメーカーはないものだろうか。

もっとも、学校側に購入する意思がなければ、メーカーは製作には踏み切らない。
しかし、もし勇気ある学校がカラフルなカスタネットを注文したら、メーカーにひとこと、念をおされるかもしれない。
「ご希望ならば作りますが、あなたの学校は、周りと一校だけ違っていても、それに耐えられる学校ですか」

 

 

 

 

 

 

11月24日

東京国際女子マラソン    (カノコ)


秋も深まって、マラソンや駅伝のシーズンが始まった。
18日は、その先陣を切って「東京国際女子マラソン」があった。
この大会が始まったのは、1979年、国際陸連公認の唯一の女子マラソンの大会として開催された。
その後「大阪国際女子マラソン」、「名古屋国際女子マラソン」と続き、この大きな大会の開催が、日本の女子マラソンのレベルアップの大きな要因だといわれている。
日本の女の子たちは、秋から冬にかけて、日本の街を駆け抜けるマラソンや駅伝ランナーを見て、大きくなる。その中で、自分も走ってみたい、と思う少女たちが輩出してくるのだ。
岐阜県出身の金メダリスト、高橋尚子選手もその一人である。

「女性には、マラソンは向いていない」と公言されていた。わずか30年前のことである。
マラソンの大会は市民ランナーのものであれ、「女人禁制」であった。
1967年のボストンマラソン、周りを友人たちに囲まれて42.195キロを走り抜いた、キャシー・スイッツァーさんは、ゴール寸前大会役員に発見され、ゴールを阻止されたという。
そういった「迫害」にもめげず、各地の大会に、こっそり参加し、完走する女性たちがでてきたことから、女性の参加が公式に認められたのが1972年のボストンマラソ ン。
東京国際女子マラソンは、それから数年後のことであった。

この大会は、当初から、テレビ中継されていた。
日曜日の午後、秋の東京の街並みを颯爽と走り抜けていく女性たちの姿は、どんな数字より雄弁に、「女性たちの力」「女性の社会進出」を示してきた。
結婚し、子どもを持って、走り、優勝する選手。
女性のスポーツ選手は、結婚し引退するのが「当たり前」だった日本では、信じられないことだった。
しかし、現実に走っている選手の姿は、それが「思いこみ」に過ぎず、本人の意思と努力によって解決されることだということを何より雄弁に語っていた。

1992年、49歳で亡くなった干刈あがたという作家がいる。
彼女に『ゆっくり東京女子マラソン』(1984年)という作品がある。
小学校3年生の子どもを持った母親たちの姿を通して、多様な価値観のなかで揺れ動く『母』という名の女の気持ちを描いている。
東京国際女子マラソンを、見ていると、彼女が書いたフレーズが浮かんでくる。
・・・正午。号砲が響き、第2回東京国際女子マラソン参加の48人の女性ランナー が、いっせいに走り出した。

「日本の女。いとしいわ」
「短い脚。ガニ股。お尻はドテッと落ちている。きっと、くるぶしなんか座りダコがぐりぐりしているわよ。重い荷物を背負ってきた日本の女の歴史を体現している肉体なのよ。」
「今、彼女の肉体が開放されているのよ。彼女は自分のためだけに走ってるんじゃないわ。見ている女たちぜんぶ、自分を作った日本の女の歴史ぜんぶを解放するために 走っているのよ。女の底力の強さ、美しさをよく見て」
・・・アメリカの選手のデリア・俊子がやっと姿を見せた。彼女はほとんど歩くよう にして、それでも自分で自分を励ますように一歩一歩足を踏み出して走っている。沿道の人たちが声をかけている。俊子、がんばれ。俊子、がんばれ。その声にあわせて、満子も小さい声で言った。まるで満子が自身を励ますように。
・・・最終ランナーの後姿をカメラが映し出した。大勢の女たちがそれぞれの走法で走っていった道を、もう走る力も尽きてトボトボと、それでも脚を休めずに前に向かって歩いていく。イチョウの葉が彼女の頭上に黄金色に輝いている。洋子はゴールに姿を見せなかった何人かの人のことを考えていた。

この時の優勝ランナーは、ジョイス・スミス。2時間30分27秒。昨年の優勝者でもある彼女は、イギリスの43歳のランナーであった。

 

 

 

 

 

 

11月26日

分断された時間  (カナコ)


実家の母が退院。本来ならもうしばらく実家に滞在して家事をしなければならないところだが、病人の予後の良いのを幸いに、早々に戻ってきた。
実家では、自分の仕事ができない・・・

母の手術は命に関わるものではないから、特に手はかからず、家にいるのは高齢の父だけで、家事は楽なもの。
それなのに、自分の時間が取れない・・・

8時に朝食。全ての家事は9時には終わる。その後10時まで自分の時間。
10時から11時まで父の通院に付き添う。その後12時まで自分の時間。
その間、町内会の連絡が来る、宅急便が届く、電話がかかる・・・
12時から1時まで昼食。その後2時まで自分の時間。
2時から4時まで病院。その後5時まで自分の時間。
5時から残りの家事と台所仕事。6時から7時まで夕食。その後8時まで自分の時間。
8時頃から入浴する父を介助。その後9時からは自分の時間。

のんびりした日常である。昼間だけでも5〜6時間の自由な時間がある。手が空くたびに机に向かう。
しかし毎回、思考がスタートから始まるため、まとめなければらない原稿は“助走” で終わってしまう。調べなければならない資料は広げるだけで終わってしまう。
分断された時間・・・何ひとつ形にならないままに過ぎて行く時間・・・

智恵子抄の中の一文を思い出した。
「彼女も私も同じような造形芸術家なので、(略)互いにその仕事に熱中すれば一日中二人とも食事もできず掃除もできず、(略)やっぱり女性である彼女の方が家庭内の雑事を処理せねばならず、(略)詩歌のような仕事ならば、あるいは頭の中で半分は進める事もでき、かなり零細な時間でも利用できると思うが、造形美術だけはある定まった時間の区画がなければどうすることもできないので、この点についての彼女の苦慮は思いやられるものであった。(略)彼女はいつも間にか油絵の時間を減少 し、ある時は粘土で彫刻を試みたり、又後には絹糸を紡いだり、それを草木染めにしたり、機織を始めたりした。」

油絵を志していた智恵子は、分断される時間ではそれがかなわず、作業をストップし やすい機織を始める。
しかし夫から見れば、それが“いつのまにか”であり、そんな妻に同情しつつも “やっぱり女性である彼女の方が家庭内の雑事を処理せねばならず”なのである。
繊細な智恵子は、その葛藤の中でついに発狂する。

私の実家での一ヶ月は、ままならぬ時間とはいえ、気遣いのいらぬ大人相手の暮らしであった。しかし、密室で幼い子どもと向き合っている母親のイラ立ちは、私の比ではない。
家事・育児時間の合計は、夫から見ればささいなもの。しかし、分断された時間は、それをいくら足してもマイナスにすらなる事実を、どう説明したらいいのか・・・。

 

 

 

 

 

12月9日

紙ふうせん〜1年がたちました    (カノコ)


第21回全日本実業団対抗女子駅伝が、今年も終わった。
家の近くを走ることもあって、テレビで見ながら頃合いを見計らって、沿道へ急ぐ。
そんなことを繰り返してきた。
チームのユニフォームに身を包んだ選手たちの息づかいが聞こえる沿道にたつと、 「一生懸命」っていい言葉だなあ、なんて思えてくる。

この駅伝が終わると、今年も終わるなあ、と思う。
遠くの山はうっすらと雪化粧をし、名残の落ち葉が道を舞い、伊吹おろしは冷たい。
・・・そして一年がたった。
この一年、私は何をしてきたのか。
一生懸命に走る選手たちを間近に感じながら、自分の一年を思う。

とにかく、一年、この「リレーエッセイ」を続けられた。
それはうれしいことだ。
このページを維持し、リレーエッセイを書けたこと、それは、クリックしてみてくださるあなたが、いたから。
パソコンの前にいる、あなたに、「一年間、ありがとうございました」。 このページを作ってくださるMさんがいなければ、技術に疎い私たちには、ページの 維持さえ困難だった。
Mさん、ありがとう。

「力」のないものも、「願う」ことはできる。
そして、一生懸命願ったことは、かなうことだってあるんだ、ということを私に教えてくれたのは、1冊の子どもの本だった。
ルーマ・ゴッデンのその本が、この冬、バーバラ・クーニーの絵に変わって、岩波書店から新しく出版された。
『クリスマス人形のねがい』という美しい絵本である。
クリスマスプレゼントに、お人形が欲しかったアイビーという女の子と、買ってくれる女の子を求めていたホリーというお人形の物語。
「これは、ねがいごとのお話です」とはじまるこの物語は、願いごとには強い力が秘められていることを、読むもの教えてくれる。
「もしわたしがねがいごとをしなかったら、どうなっていたかしら」と、お人形のホリーはいう。
そう、そんなことできっこないに決まってる、とあきらめたら、状況は何も変わりはしない。