2月2日

女に生まれて   (カノコ)


"女に生まれて喜んでくれたのは"
とはじまる中島みゆきの歌がある。
"菓子屋とドレス屋と女衒と女たらし"
(「女衒」は、「ぜげん」と読む。女を遊女屋(女郎屋)に売ることを職業にしたものである。)

"生まれ落ちて最初に聞いた声は落胆のためいきだった"

「女であった」ということを歓迎されない誕生。
「また、女か」
「一姫二太郎、っていうからね」
「女の子は、育てやすいから」

最近、都市部では女の子の方が歓迎されるらしい。
男の子は「お嫁さん」の言うがままになるから。
女の子は大きくなっても、一緒に買物に行ったり、旅行に行けるから。
やっぱり、老後の面倒を見てもらうなら、実の娘の方がいいから等々。
が、まだまだここらあたりでは、「あとつぎ」の男の子が待望される。

生まれたとき、自分が落胆のためいきに迎えられたことは赤ん坊にはわからない。
しかし、少し大きくなったとき、どこかのおばさんにこういわれる。
「次は、男の子ね」
あいまいにうなずく母親を見ながら、娘は思う。
どうして、女の子じゃないの?
どうして、女の子じゃダメなの?

約四半世紀前、「でかした!また男の子」という銀行のCMがあったという。
男の子を産むのは「お手柄」という家制度の残滓がまだ色濃かったころ。
そのころ女の子を出産されたという板東眞理子内閣府男女共同参画局長は、その時受けた「慰め」を何とも思わなかった、という。それが、「世間の常識」だったから。
女であることが、不利なことばかりの時代や国では、女の子は歓迎されない。
それこそ、女衒が、商売の道具として歓迎してくれるくらいなのだ。

板東局長は、「男女共同参画情報メール」(第4号1/11発行 申し込みは http://www.gender.go.jp/) こう書いている。
《女の子であれ、男の子であれ、生まれた命に敬意を払い、心から祝福する。その子のかけがえのない生命が健やかに伸びることを祈る。その子が「自らの意思によって、あらゆる分野に参画し、その利益を享受すると共に責任を担う」ような社会を作る。男女共同参画社会が形成されることによって、すべての子どもが歓迎される・・・素朴だけど、これが一番わかりやすい成果ではなかろうか。》

中島みゆきはたぶん2月生。『やまねこ』というこの歌に次の一節がある。
"嵐あけの如月 壁の割れた産室"
札幌生まれの彼女の祖父は、岐阜県出身だとか。

そして今日が私の誕生日。

 

 

 

 

 

 

2月6日

女の子  (カナコ)


結婚して何年も子どもができなくて、人生における子どもの存在などをじっくりと考える前に、「どうしても後継ぎを・・・」というプレッシャーに抗し切れなかったのは、若さゆえか。見えない何かに押されるように、不妊外来なるものに出かけていった。
初めて試みた治療が運良く体質に適合したのか、ほどなく妊娠。そして出産。女の子だった。

病院を訪れた何人かが、やさしく私に声をかけた。
「気を落とさないでね。初めは女の子の方が育てやすくていいのだから」
気を落としてなどいない。医師は簡単に安産と言うが、こちらは大変な思いをして産んだのだ。誰が気を落とすものか。

一度妊娠すると、体質が変わることもあるのか、翌年第2子を出産。女の子だった。
再び病院を訪れた何人かが、またまたやさしく声をかけてくれた。
「ほんとに気を落とさないでね、あなた、まだまだいける年なのだから」

確かにまだまだいける年。しかし、しばらく産むのは休もうと、その時はっきり決めた。
次も女の子なら、喜んで産んでみよう。しかし、万が一男の子だったら・・・私は、周囲の歓喜の声に流されてしまうかもしれない。
女が“女の子”の誕生を喜んでやれない社会に、待ってましたとばかりの“男の子” を増やしたら、社会のシステムは何も変わらないままではないか。
若い私には、その「待ってました!」に抵抗して、後継ぎでない男の子を育てきる自信はなかった。

私が産むのを“休んで”から、何年経つだろうか。
未だに“休んで”いるのは、後継ぎでない男の子を育てきる自信が持てないままだからか。

最近、様々な夢を語る中学生・高校生の女の子が多い中で、覇気のない男の子たちがポツリとつぶやく。「お前らは自由でいいよな。オレたち、後継ぎだから・・・」
男の子であれ、女の子であれ、かけがえのない人生。今なら、あの頃のように『抵抗勢力』としてではなく、もう少し自然に、どちらの子とでも向き合える気がしないでもないのだが・・・。少々遅いか・・・。

 

 

 

 

 

 

2月10日

くどき文句   (カノコ)


芥川賞の発表作品を読もうと、『文藝春秋』を買ってきた。
中に、「さよなら、カモカのおっちゃん」と題した田辺聖子さんの「喪主挨拶」が 載っていた。
"最愛の夫にして 最高の飲み友だちに送る 別れの辞”

急死した作家仲間の夫であったカモカのおっちゃんこと川野氏のプロポーズの言葉が紹介されていた。
「中途半端と中途半端が二つよったら満タンになるやないか」
結婚しよう、その方がおしゃべりしやすい、という話になったとき
「だって、子どもが4人もいるんでしょ、家事も見ないといけないし、私は小説も書かないといけないから、双方とも、中途半端になってしまうわ」とお聖さんがいったときの言葉だそうだ。

この人と一緒に暮らせて、いっぱいおしゃべりできて、ほんとによかった、という思いのあふれる別れの辞であった。
どちらかがしっかりしていて、
(男の方に経済力があって、女はその経済力に依存して生きていく、とか)
(女のほうに家事能力があって、男はその家事能力に依存して生きていく、とか)
そっちに依存する関係であれば、死別は喪失でしかない。
なくなったものを嘆き、残されて、一人でやっていかなければならない自分への不安にさいなまれるのではないか。

妻に先立たれ、4人の子どもを持ったやもめが、「家事」をして「母親役」をやってくれる後添えとして、お聖さんを選んだのではない。
売れっ子の作家の彼女は、経済的安定を求めて、やもめの医者と一緒になったのではない。
ひとりでもやっていけるけど、ふたりの方が楽しいね、という関係。

「君を必ず幸せにしてあげる」
「必ず君を守り通す」
というのは、依存を強いるくどき文句。
(子どもも巣立って、退職して)二人っきりで人生の後半を20年生きていく時代には、ふさわしくない。
21世紀にふさわしいくどき文句は
「中途半端と中途半端が二つよったら満タンになるやないか」
ただ、自分が中途半端である、と自覚するのは、なかなか難しいことかもしれないが。

 

 

 

 

 

2月11日

ゆめ条例  (カナコ)


岐阜市長選真っ只中。連日、新聞紙上で候補者の様々な横顔が紹介されている。
そんな中で、「あったらいいな、ゆめ条例」というタイトルで、岐阜市にこんな条例がほしいという、各候補者の夢が語られていた。

・・・で、そんな話をカノコさんとしていた時、カノコさんがふとつぶやいた。
「男女共同参画社会実現のために、【はんぶんこ条例】っていうのがほしいよね。」
「そうだ! そうだ!」と大賛成のカナコとともに、「ゆめ条例」の話に花が咲いた。
以下は、二人の「ゆめと消えないゆめ条例」

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

カノコとカナコの【いつでもどこでも、はんぶんこ条例】

今まで市の施策を決める時、ついつい男性の意見が優先されてきました。でもこれは、やむをえなかったかもしれません。
社会のシステムが、そういう形に作られていたから。
施策を決める場に、男性の姿しかなかったのだから。

今まで子どもたちの施設を作る時、大人の意見だけで決められてきました。でもこれは、やむをえなかったかもしれません。
社会のシステムがそういう形に作られていたから。
それを決める場に、大人の姿しかなかったのだから。

今まで市民が主体で動ける場面でも、市の職員だけが動いてきました。でもこれは、やむをえなかったかもしれません。
市のシステムが、そういう形に作られていたから。
市民は力を持たないものだと、市側もそして市民自身も、そう思い込んでいたのだから。

そろそろ、このあたりで、[いつでもどこでも、はんぶんこ条例]を作りませんか。
施策を決める時は、「男性と女性とはんぶんこ」で討議をすれば、今までになかった視点が生まれます。
子どもたちに関わることは、「大人と子どもがはんぶんこ」で考えを出し合っていけば、子どもたちの生き生きした活動が生まれます。
市民が参画できる施策は、「官と民とがはんぶんこ」で仕事をすれば、どちらも充分な力を出すことができるはずです。

いつでもどこでもはんぶんこ・・・
これは、21世紀に向けてのクオーター制。

 

 

 

 

 

 

2月23日

父兄   (カノコ)


週刊誌の見出しに、久しぶりに「父兄」の二文字を見た。
口頭では、まだまだ使われるのだが、新聞の活字で見るのは、そういえば久しぶりだった。
生徒の保護者(通常は"親")をさすのに一昔前までは、「父兄」が一般的な言葉だった。

しかし、これは女性には選挙権も、親権も、財産権も認められていなかった明治民法によって規定された言葉である。子どもを保護するものは、その家の男性。父がいな ければ、それは兄の責任になる。
だから「父兄」。

卒業式や、入学式のシーズンが近づいてきた。
ほとんどが母親(父親はちらほら。兄は皆無に近い)の保護者席に向かって、「ご父兄のみなさまには・・・」と話す校長はさすがにいなくなったが、来賓にはまだけっこういる。
「ご父兄」と呼びかける言葉にカチンときながらも、学校からの書類の「保護者の署名捺印」という欄には、夫の名前を書いて捺印する母が多い。母の名前でいっこうにかまわないのだが、やっぱり「保護者」は父、と思うのだろうか。

保護者、守るのは男。守られるのは女・子ども。
これもやっぱり「刷り込み」なんだ、と映画『千と千尋の神隠し』を見ながら思っていた。
スクリーンに繰り広げられる物語の中、女の子である千尋(=千)はさまざまな手助けは受けるものの、基本的には自らの才覚で、自らの身を守っていく。
そればかりではなく、両親を含め、さまざまなモノたちを救っていく。
ハクという少年は、まるで「白馬の王子」さまのような姿をしているが、「キャー」 と叫ぶ千を救い出してくれるわけではない。彼は方法は教えるが、あくまで実行するのは彼女自身である。そして、最後には、千が、彼を救うのである。

21世紀の初め、このアニメーションが世界的な評価を受けたというのは、偶然ではないという気がする。
評価は、さまざまな分野にわたるのだろうが、たいへんな難局を切り開く力を持っていたのは、ふつうの女の子だった、という設定も、その評価の一部なのではないだろうか。

「男性」「大人」「官」ではなく、「女性」「子ども」「民」。
新しい世界を切り開くには、今まで省みられなかった方の力も使っていかなければならない。

いつでもどこでもはんぶんこ・・・
これは、21世紀に向けてのクオーター制。
21世紀を生き延びるためには、これしかない・・・きっと。