3月1日

レイプ神話  (カナコ)


21世紀を生き延びるためには、今まで常識と思われていた視点を 転換して、新しい“ものの見方”を創り出すことが必要。
昨年10月にDV防止法が施行されて以来、被害を訴える女性が、またたくまに3倍になったというけれど、これはDV被害者が増えたのではなく、「夫が手を挙げるのは、 ごく普通のこと」という従来の視点が、大きく転換されてきた結果。

性暴力の一つである“レイプ”に関しても、今まで信じられてきたことが事実で はないと数値で証明されて、視点の転換が求められている。
★女性には強姦願望があるというのは神話であって、レイプを望んでいる女性などいないこと。
★挑発的な服装をしていたから襲われても仕方がないというのは神話であって、実際の被害は服装や年齢に関係ないこと。
★一緒に部屋に入ったり車に乗ったりした女性は性行為に合意したというのは神話であって、その行動と性行為は全く別であること。
★男性は性欲が強いので女性を襲っても仕方がないというのは神話であって、すべての男性が加害者にはならないこと。
★女性が夜道を歩いているから被害にあうというのは神話であって、加害者のほとんどが顔見知りや友人・恋人・夫であること。

それでも、「夜道は危険が一杯だから、やっぱり女性は一人で出歩かない方がいい」と言うならば、いっそ視点を180度転換して、「男性は夜道で加害者になりがちだから、男性の夜間外出を禁止する」というのはいかが?
痴漢防止のために作られた“女性専用車両”もあることだし・・・。

 

 

 

 

 

 

 

3月12日

神話   (カノコ)


「神話」は昔々のお話であるが、それはその時を生きる人たちにとって、絶対に必要なものとして、疑いようのないものであった。
ドロドロのものをホコでかき回して、ぽとぽと落ちて固まったのが、この日本のはじめの姿である・・・そんなバカなこと、という人が多くなれば「神話」は単なるひとつの物語になってしまう。

「レイプ神話」というように使われるときは、その「神話」は確たる根拠もなく、人々に絶対と信じられている事柄をさす。子育ては女性の天職であり、とりわけ三歳までは母親でなければならない、というのが「三歳児神話」。
子どもを産むことは女性の何よりの幸せであり、お腹を痛めた我が子を胸に抱くときが母親の至福の時だ、というのが「母性神話」。

大日向雅美恵泉女学園大学教授の全国の乳幼児を持つ母親6000人を対象とした調査がある。
「あなたは子育てをつらく思うことがありますか?」「子どもを可愛く思えないこと がありますか?」という質問に「子育てをつらく思うことがある」「子どもを可愛く 思えないことがある」と9割、8割の母親が答えている。
この数字を見て、子育てをした女性は同感し、男性は「そんなバカな!」と反発するという。

子どもが可愛くないわけではない。子育てはつらいことだといっているのでもな い。
「子どもは可愛いし、子育ての大切さもわかっている。それでもうんざりして、時には逃げ出したくなることがある。子どもがいることに疲れてしまう」と、子育て中の女性は言う。
その女性を追いつめるのが「母親神話」である。「あなたは母親なんだから・・・」

子どもを虐待し、死にいたらしめるのは、圧倒的に男親である。
しかし、数が少ない母親の方をマスコミは大きく取り上げる。
「鬼のような母親!」「我が子が可愛くないなんて!」
かくして、今日も「母親神話」が本当にそうなのか、という検証もなく声高に語られていく。

 

 

 

 

 

 

 

3月17日

プラス思考?  (カナコ)


女性の生き方を考える講座が、あちこちで開かれるのは大歓迎。 しかし最近、そんな参加者の中で途惑うことがある。
何度かの学習のあと、彼女たちの多くが語る。
「金銭的な苦労もあったし、夫の浮気もあったけれど、そんな体験はみんな、現在の自分の糧となっている」
「子育ても大変だったし、ヨメとしても辛かったけれど、そういう谷があったからこそ、今の私があると言える」
そんなに手放しに、すべての体験を肯定できるのだろうか。彼女らの言葉の中に、肯定しなければならない必死さを感じてしまうのは、私だけだろうか。

また、ある人が言う。「病気になって初めて、自分の人生が見えてきた。入院してよかった」
確かに、病気を体験したことで見えたこともあるだろう。私もかなり大きな手術を受けているから、それを否定はしない。
しかし入院なんて、しないで済めばそのほうがいい。

どんな体験でも、その中から楽しみを見出せる「プラス思考」は大切。
でもなぜ、すべての体験が、自分の人生をすばらしいものにする材料でなければならないのか。
「どう考えても、やっぱりあれはマイナスだった」という体験や、「自分にとって、 何の意味もなかった」という体験があってもいいではないか。
更に言うなら、辛かったり悲しかったりしたことまで、あえて“生きる原動力”としなくてもいいのではないか。

「自分らしく生きなければ・・・」
「毎日をいきいきと生きなければ・・・」
「自分さがし・自分見つけをしなければ・・・」
女性たちの集まりの中にいると、時折、そんな悲痛な“心の叫び”が聴こえるような気がする。

明日の自分が、今日の自分よりレベルアップしていなくてもいい。
明日が、いつもいつも、今日よりすてきな日でなくてもいい。
「今まで色々あったけれど、やっぱりこれでよかったのよ。色々あったからこそ、今の私はとっても幸せ!」と、胸を張って言えなくてもいい。

私も特に長く生きたわけではないが、「やっぱりあれは失敗だったなあ」と感じる体験は少なくないし、思い出したくもない出来事や、大きなマイナス点になっていることも多々ある。人生としては、そこそこ55点くらい。
そこそこでいい。失敗は失敗、マイナスはマイナスのまま、心の引き出しに入れておこうと思っている。

 

 

 

 

 

 

3月26日

あすなろ   (カノコ)


いつもの年より早く、桜が咲いた。入学式にはすっかり葉桜だろう。
年に1回だけ、わずかの間だけ咲くからこそ、桜は特別な花として好まれる。
「散ればこそ いとど桜は めでたけれ」(伊勢物語)

桜の木は、時を知り、季節を感じて、つぼみをふくらませ、花を開く。
それは、当たり前の季節のめぐり。
桜自身が、意志を持ち、「去年より、美しく咲こう」と思うわけではない。
桜が毎年変わらないからこそ、それを見上げる己の変化に気づく。
「年々歳々 花相似たり。 歳々年々 人同じからず。」(劉延芝)

「明日の自分が、今日の自分よりレベルアップしていなくてもいい。
明日が、いつもいつも、今日よりすてきな日でなくてもいい。」
そう考えるのはよくないこと、と何となく思わされてきた。
昨日よりすてきな今日、今日より素晴らしい明日をめざしてがんばることが奨励されてきた。

そこに立っている木を「アスナロ」と名付けた人がいた。
ヒノキに似て、ヒノキではないその木が「明日はヒノキになろう」という意味だという。
ヒノキは価値ある木。アスナロはそれより落ちる。
そういう人間の価値観が名付けた代物。
木は、木としてそこに立つ。人間にとって役に立つために立っているわけではない。 明日は、より役に立つヒノキになろうと思って立っているはずはない。

毎年、同じに咲くからこそ、桜は素晴らしい。
人為を越えて、人の思惑を越えて咲くからこそ、桜はめでられる。
ひとつ年を重ねたけれど、今年も無事、桜に出会えた。
年は重ねたけれど、別に進歩をしたわけではない。むしろ、後退したものだってあるだろう。

明日には、進歩だけではなく、後退もある、ということ。
変わらずに咲く桜の花は、そんなことも教えてくれる。