4月3日

母娘  (カナコ)


桜の季節は、旅立ちの時。
デパートで、母と娘が選ぶ華やかな色合いのスーツは、社会人への旅立ち用か。
何度も試着室の扉をあける娘に、母親が言葉をかける。
「やっぱり、3つボタンの方がいいわよ。ねえ、さっきの店に戻らない?」
その言葉に、素直に従う娘。
いかにも仲良し母子(おやこ)。ほほえましい・・・のかもしれない。

私が、初めて一人でスーツを買ったのは、社会人になって何年たった時だったか。一人でも選べることを、母に誇示したかった。
でも、そのスーツの色も形も値段も何一つ、母には気に入らなかった。
「アンタのことは、私が一番よく分かっているのだから」
それからまた何年か、私は自分で自分の服を買う決断ができなかった。

娘の旅立ちを、心から喜ぶ母。
しかしその旅先は、母の知らない世界であってはならない。
娘には、幸せになってほしいと願う母。
しかしその幸せは、母の知らない無上のやすらぎであってはならない。

あの時、母が本当に気に入らなかったのは、その色や形や値段ではなくて、私が一人で買ったという行為だと気付いた時、私はほんの少し「母」を卒業できた気がした。
この春、満開の桜の中で着たくて、鮮やかな若葉色のスーツを買ったのは、母への反逆ではなく、素直に私がそれを好きだったから。そして、私のことは、私が一番よく 分かっていたいと思ったから・・・

 

 

 

 

 

 

4月7日

迷子   (カノコ)


明日は、小学校から高校まで、県下のいろんなところで入学式。
ピカピカの1年生とその親は期待と不安で胸をいっぱいにして、学校の門をくぐる。
入学式は、旅立ちの儀式。新入生は、新しい世界へ足を踏み入れる。
そう、そこから旅立つのは、子どもたち。付き添いの親ではない。

子どもたちの前に広がる新たな世界。
それを見はるかしながら、親の胸は何より不安でいっぱいになる。
転ばないだろうか・誰かに傷つけられはしないだろうか・行方を見失いはしないだろうかetc.
不安にかられてつい親は叫んでしまう。
「あそこから向こうへ行ってはダメよ!!」

「あそこから向こう」は親の声の届かないところ。親の目の届かないところ。
だから言うのだ。「迷子になるとダメだからね」「怖い人が来るよ」「あっちへ行く のは悪い子だけ」etc.
子どもを声とまなざしでコントロールする。
「そうよ、お母さんのいうことを聞いていれば大丈夫なのよ」

小学校1年生の生活を描いた武田美穂の絵本シリーズがある(ポプラ社)。
『となりのせきのますだくん』で子どもの心をとらえたシリーズの4冊目が『まいごになったみほちゃん』
お母さんのいいつけをいつも守るいい子のみほちゃんが、はじめてお母さんのいいつけに背いて、渡ってはいけない道を渡って、向こうへ行くお話だ。
案の定、みほちゃんは迷子になる。でも、迷子になったことで、みほちゃんは大きくもなるのだ。

できたら危ない目にはあって欲しくない。
その親心は当然のことだろう。
しかし、親の円周から出ないで、子どもは大人になれるのだろうか?

「可愛い子には旅をさせよ」
親の知らない世界、親の保護の及ばない世界をひとりで歩かせること。
子どもが危険な目にあっているのではないか、という不安に子どもを信じて耐えること。
それが大人への道であり、大人である条件である、そんなことを教えてくれることわざのような気がする。

 

 

 

 

 

 

4月10日

やってもできない  (カナコ)


子どもたちの前に広がる新たな世界は、付き添いの親にとっても、自分がもう一度「生き直し」のできる、魅力ある世界。
「あれもこれも、できる子に」という願いは、もしかしたら「あれもこれも、できる子の親に」という願いなのかもしれない。

90点を取って、一杯マルのついたテストを誇らしげに持ち帰った娘に、「どうして、こんな簡単なミスばかりしたの?」
95点を取って、この前よりよかったと微笑む娘に、「今度こそ、100点取れるよね」
100点取って、胸弾ませて帰った娘に、「満点は、何人いたの?」
続けて100点取った娘に、「やれば、できるじゃないの。アンタは、頑張ればできる子なのよ」
いつまで頑張ればいいの? 
頑張らない私は、「私」じゃないの?

今さら責任転嫁するわけではないが、「頑張れ!」と励まされ続けた私は、次第に戦いに疲れていった。
少なくとも高校時代まで、大切なエネルギーをわけのわからぬままに使い果たしてきたような気がする。
たまたま、私の在籍した高校は進学校で、同級生の一割は、一度聞いただけで終生忘れないような頭脳レベルの持ち主だったから、私は無意味な戦いを続けていたのだろう。

「何が何でも走らなければ」という強迫観念は、かなり大人になるまで続き、たとえ終日ヒマを持て余すような日であっても、好きな推理小説など読んでいると、「こんなことしている時間は無駄ではないのか」という後ろめたさにさいなまれ続けた。
もう、誰も見ているわけでもないのに・・・。
もう、だれも私を評価するわけでもないのに・・・。

世の中には、やってできないこともある。
やってできたとしても、大して意味のないこともある。
「時には、努力しても仕方ないこともあるんだよ」と、子どもたちに伝えたいと思う私は、無限の可能性を秘めた若芽を摘んでいることになるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

4月20日

努力   (カノコ)


今年は、桜に限らず、どの花も早く咲くようだ。
ハナミズキ、フジ、ヤマブキといった初夏の花に誘われるように、鯉のぼりが空を泳ぎだした。

   ”百瀬の滝を登りなば たちまち竜になりぬべき
    我が身に似よや男子と 空におどるや鯉のぼり”

中国の、黄河の上流にある竜門という急流を上りきった鯉は竜になれるという故事があるという。
だからそこを「登竜門」というのだそうだ。
転じて「登竜門」は「立身出世」を得るための関門の意味となった。

気持ちよさそうに、「橘薫る朝風」のなかを泳いでいるように見えるが、あの鯉のぼりたちは、日々努力して、登竜門を上って、竜になれといわれているのかもしれない。
「男だから」
「男でしょ」
「男のくせに」等々
泳ぎ続ける男子たちにまわりから叱咤激励の声がとぶ。
「鯉のまま、ここでのんびり泳いでいたい」という願いは無視される。
「竜」になれる可能性を持っているのに、その可能性に向かって努力しない者は、ダメなやつだ、といわれる。
鯉が鯉として生きる選択肢は準備されていない。

先日TVのニュースで、岩倉の五条川の風景を見た。鯉のぼりを作るその地では、五条川で、鯉のぼりのさらしをするのだという。
「最近は、女の子用の鯉のぼりの注文も増えました」という職人の声が聞こえてきた。
鯉のぼりは、男の子のもの。どんなに欲しくても、女の子は買ってもらえなかった。
「女の子しか」いないのに、鯉のぼりは上げられない・・・と思いこんでいた親がほとんどだった。
罰則があるわけでもないそういう風習に縛られない親がでてきたのだ、とその言葉に時代を感じた。

男だから、女だからではなく、上げたいものが鯉のぼりを上げられる世の中。
「竜」になる可能性に向かっているからと「鯉」を評価するのではなく、悠然と泳ぐ「鯉」そのものの姿をめでる世の中。
そんな風通しのよさこそ、五月の薫風にふさわしい。