5月17日

ぐーたら  (カナコ)


4月の末にパソコンが壊れた。連休中はメーカーが長期休業とのことで、3週間は手元に戻らない。データがなければ、私のすべての作業はストップする。
その気になれば、知人宅で続行できないこともないのだが、今回は、そこまでしないことに決めた。

もともと私は、「ぐーたら」するのが得意ではない。TVの2時間ドラマをボーッと見ていて、外見はいかにも「のんびり・ぐーたら」している状態でも、私の耳には、 「こんなことしてて、いいんかい?」という天使のささやきが、いつも聞こえている。それを“聞こえないフリ”するのには、かなりの努力が必要。だから、「ぐーたら」も結構疲れる。
でも、パソコンの故障はチャンス。これでは、天使もささやきようがあるまい。
ついでに、リレーエッセイも無断休載させてもらうことにした。

こうなると、夜は実にヒマである。はじめの1週間は、ただもう手持ち無沙汰。そのうちに次第にソワソワと視点が定まらなくなり、世間から取り残されたような不安が高まってくる。
しかし、3週間が終わる頃、座椅子からずり落ちそうにくつろいで2時間ドラマを満喫している自分を発見。手にしているコーヒーはインスタントでなく、そのたびに好みの濃さに入れて飲む楽しみも知ってしまった。
このまま、「走らないで生きていく人生」もいいかもしれないと思い始めた時、メーカーからの「無事、直りました」という電話。

この長期休暇中に見た夏樹静子氏の推理ドラマに、「過去と他人は変えられないけれど、自分と未来はいくらでも変えられるのだから」という決めゼリフがあったけれど、座椅子からずり落ちそうになりながら飲むコーヒーの味は、私の未来をほんの少 し変えるかも・・・。

 

 

 

 

 

5月26日

ぐーたら、ぐーたら   (カノコ)


「ぐーたらママ」というマンガがその昔あったような気がする。
一家の主婦は、座るまもなく働いているものだ、というころには、おせんべ片手にTV の前に座り込んでいる主婦は、「マンガ」になったのだろう。
「ぐーたらパパ」というマンガはない。忌野清志郎が歌ったように、休日で家にいるパパは、勤め先での激務の反動でぐーたらしているのであり、ぐーたらは当たり前のことだから、マンガにはならないのだろう。

だから、少々の熱でも、パパはママが差し出した薬を飲んで勇躍職場に出かけていき、ママは、横になることもなく家事や育児や介護にいそしむものであった。
少し具合が悪いからといって休んでいると、天使が「こんなことしてて、いいんかい?」とささやいてきた。
そういう人たちが、日本のかつての高度成長のころの働きを支えてきた。

合い言葉は、「滅私奉公」。
「私」の具合の悪さや、願いよりも、「公」を優先させるのが、あるべき姿だった。
男にとっては職場。女にとっては「公」は家であった。
そうでないものは「ダメなサラリーマン」「ダメな主婦」としてマンガになり、心の奥でそうありたいと願っている人々の喝采を受けていた。

5月はそういうあるべき役割が揺らぐ季節。
新しい役割を必死にこなして疲れるころだから。そして、新たな役割にどうにもなじめないことがはっきりしてくる季節だから。
萌えだした新緑の激しいほどの生命力に疲れ気味のからだが、圧倒されてしまうのかもしれない。

5月のさわやかな風を感じると、決まって萩原朔太郎の詩の一節を思い出す。
  「せめては新しき背広をきて
   きままなる旅にいでてみん。
   汽車が山道をゆくとき
   みづいろの窓によりかかりて
   われひとりうれしきことをおもはむ
   五月の朝のしののめ
   うら若草のもえいづる心まかせに。」

「ふらんす」へも「きままなる旅」にもいけないときは、せめて「ぐーたら」することで「日常性」を少し離れるしか、この季節を乗り切るすべはないのかもしれな い。

 

 

 

 

 

 

5月30日

片付けられない女たち  (カナコ)


まだパソコンが入院中の頃、ぼんやりTVを見ていると、コメンテーターなる人の言葉が耳に飛び込んできた。「このごろ、グータラしてる女性が増えましたね」エッ?私のこと?
その番組のタイトルは、“片付けられない女たち!”。ますます、「私のことかい?」と、身を乗り出してしまった。

部屋の中に、ごみ袋が散乱している。テーブルの上には、干からびたカップ麺やコンビニ弁当の残骸。床は布団や衣類の山に覆われて、畳が見えない。
そんな妻の姿に、帰宅した夫がため息をつく。「せめて、居間だけでも片付けてくれたら」という夫の嘆きに、コメンテーターは、いたく同情的。
そして番組は、片付けられない女たちの背景を探る。彼女たちは、ADHD。いわゆる注意欠陥多動性障害。
この症状は、最近では「自分をコントロールする力がうまく働かないことが原因」とされ、効果の高い薬も発見されたが、ついこの間までは、幼い頃から「落ち着きがな く、集中力に欠ける子ども」として、親の育て方が非難されがちであった。
このADHDの女性たちが大人になると、こんな形で社会に適応できないのだという。
怠けているのではなく、ある種の障害であれば、周りの理解も得られる。番組は、医学的見解を紹介して、いとも簡単に終了してしまった。

私も片付けは苦手。掃除も好きではない。これも「抑制力がうまく働いていないだけのこと」だと思えば気が楽になるというもの。早速、家族に報告しよう……と喜んではみたが、ちょっと引っかかる。「片付けられない」のがADHDの結果だとするなら、この病気の割合は、圧倒的に男性に多いはず。女性1に対して男性は4〜5倍いなければおかしい。
しかし、すぐに気がついた。部屋の中がどうしようもなく散らかっている男性の場合は、話題にならないのである。「男ヤモメにウジがわく」のことわざ通り、片付けられない男性など珍しくも何ともない。
それに、彼が独身なら「あ〜あ、やっぱり私がいないとだめなのね」という恋人がいて、いそいそと掃除に通ってきてくれるだろうし、結婚していれば、毎日食事管理や衣服管理してくれる「妻」というなの専属メイドがいる。職場では女子社員がフォローしてくれるから、問題は表面化しない。例えトラブルが起きたとしても、「オトコだから」と許されてしまう。
今回のような番組が成り立つのは、運良く「片付けられない女性たち」を発見できたからなのに、問題点は巧みにすり替えられていた。

メディアは、時として、何のためらいもなく偏見の情報を伝える。
日に何度となく、一方的に流されるCMもしかり。
人気者の中居君が、「社会に迷惑をかける若者のオムツは、ゴワゴワだったに違いない」と決め付けて、「やっぱり、母の愛とオムツの柔らかさは関係あるんだなあ」と自信ありげにつぶやけば、思わず納得してしまう人々は少なくない。その結果、[母の愛」を背負わされ、密室育児で追い詰められる女性がまた一人、増えていく。
この情報化時代には、「片付け能力」よりむしろ、「メディアをそのまま受け入れないで、もう一度自分の中で消化し直す力」の方が必要……と思うのは、“掃除嫌い” の逃げかな。

 

 

 

 

 

 

6月2日

豆ご飯   (カノコ)


豆ご飯を炊いた。白いご飯の中の緑色のグリンピースは、何より も初夏を感じさせてくれる。
莢から豆を出すときから、ときめきははじまる。
炊きあがったご飯にしゃもじを入れるときの香りがまたいい。

が、家人は誰も豆ご飯を好まない。
「え〜、豆ご飯・・・」と文句の声が食卓に起きる。
「年に一度の私の楽しみなんだから、文句いわないで!」といいながら豆ご飯を食べるのが、恒例の行事だ。
自分は好きではないけれど、家人たちは、「豆ご飯」が私の好物だ、ということは、よく知っている。

母の好物は、「魚の尻尾の方」だと思っていた、というエッセイを読んだことが ある。
いつでも、母の前には、尻尾があったから。
それが、自分や父に「お頭」の方を出すための、母の「気づかい」だ、と知ったとき・・・・というような、「母親礼賛」エッセイだった。(もちろん筆書は男性)

主婦:家族が気持ちよく元気に・仕事(勉強)ができるように生活環境を整え、 食事などの世話を中心になってする婦人。(主として妻に、この役が求められる)  新明解国語辞典(三省堂)

自分のことより、家族のことを先に考えるのが、「妻」の役割だった。
将来「妻」になる女性は、だからそうできるようにしつけられてきた。
家族が気持ちよく暮らせるためには、掃除も行き届いていなければならない。
だから、「片付けられない女性たち」は、「異常な」、あってはならない存在になる。
ニュースはそれだから取り上げる。「片付けられない男性たち」なんて、ニュースバリューがない。
「育児休暇を取る女性」「介護のため退職をした女性」をマスコミは取り上げないが、「育児休暇を取る男性」や「介護のため退職をした男性」は、大々的に取り上げる。それと同じ。

自己利益を最優先しても、男性は責められず、女性は責められてきた。
家人の好まない豆ご飯を作る、なんてことは、一昔前の女性には考えられなかったことかもしれない。
初夏の風を感じながら、豆ご飯を食べるとき、だから私はしみじみ幸せ。

 

 

 

 

 

 

6月7日

日本の常識  (カナコ)


我が家の場合、家族の好物である豆ご飯がこの時期になっても食卓にあらわれないのは、今のところ台所に立っているのが私だから。
豆類全般の苦手な私の料理は、豆ご飯どころか、味噌汁には豆腐もアゲも入らず、煮豆などもってのほか。
しかし、台所に立つ人間が代われば、食卓模様も一変する。自分の好みの料理を並べるのは、当然の人情。ましてや自己利益を最優先して生きる男性が台所に立てば、豆ご飯あり、冷奴あり、ふじっこのお豆さんあり。

子どもの嗜好は、食べず嫌いであることが多い。だから父も母も料理にかかわれば、子どもたちはそれだけ多様な「味」に触れることができるはず。しかし、男性が台所に立つ場合は、「妻を手伝っているオレって、なんてやさしい夫!」という自己満足に終わってしまうことが少なくない。。
海外でホームステイしてまず驚いたのは、夫が「当然の仕事」として、家事にかかわっていることだった。その日に夫婦のどちらに時間があるのか、何をしてほしいのかをきちんと話し合った上で、仕事を分担する。
日本の常識が、世界の常識ではない。どちらの常識が是か非かではなく、様々な生き方があるということだけは知っておきたい。

先日、大学生・留学生も交えてのレクリエーションで、グループ分けをした時のこと。「グッパーで分けようよ」と、ごく当たり前にジャンケンを始めた。そして、グーとパーの2グループに簡単に分かれた。
アメリカにもジャンケンはある。だから留学生の彼女はそれに自然に加わったのだが、途中でパニックになった。「パーはどうして“勝ち”じゃないの?チョキはどうして出せないの?いま私たちは何をやっているの?」
それが単純なグループ分けだと知った時、彼女は目を見張った。同じジャンケンを、日本人は、こんなにいい方法に使っているのかと。
だったらアメリカでは、グループ分けをする時どうするのかとたずねたら、「話し合いをします」との返事。組みたい相手を互いに希望しあって、どこまでも話し合いで決めるという。

別の留学生に、空港まで送ってほしいと頼まれた時のこと。あいにくその日は都合が悪く、「ごめんなさい。どうしても時間が取れないの」と断ったら、彼は不思議そうに私に聞いた。「どうして謝るのですか?あなたは、謝るような悪いことは何もしていない。自分はあなたに“送ってほしい”という希望を伝えただけ。あなたが忙しければ、また別の人に話すのだから」

国民性の違いといえばそれだけのこと。でも、日本には、自分の希望を述べる習慣がない。たとえ述べたとしても、それらをこだわりなく調整していける習慣がない。
日毎にグローバルになる現代。「料理は女性に向いている」という日本の常識も、見えないところで揺らぎ始めているかもしれない。