6月9日

甘党   (カノコ)


甘党は女性で、辛党は男性。
これは「日本の常識」。
以前あった「甘味処」には、「男子禁制」と言うところさえあった。
そんな看板がなくても、おいしいという評判のケーキ屋に男性だけで入っていくのはかなり重大な決心がいるらしい。
「男のくせに、ケーキだなんて」という視線。
まわり中、女性客ばかりという居心地の悪さ。

甘党、辛党は、全く「個人」の好みにすぎない、などということは言わずもがな。
が、それを「男ならお酒。女ならジュース」と性別で区別するのはどうしてだろう?
ビールを選ぶ自由も、ジュースを選ぶ自由も、ウーロン茶を選ぶ自由も当然ある。
しかし、時と場所によっては、「ビール!」と言えないこともある・・・
と、感じる女性がいることを、男性はご存じだろうか。

「ボク、飲む人」「アタシ、お酌する人」という性別分業意識がまだ尾てい骨あ たりに残っているのかもしれない。
ビールのCMで、豪快に飲み干しているのは、まだ圧倒的に男性である。
これが、日本酒になるとまだ「お酌する女性」が出てくる。
女性が主役のアルコールのCMは、梅酒だけ。

コンビニのデザート類の約7割は男性客が買っている、という記事の見出しは、
『男だって 甘い物』
女が、甘い物を買ったとしても、きっとこの記者は記事にしないだろうし、記事にしたとしても、掲載されないだろう。

「さあ、ご婦人には、ジュースを」と親切に差し出されたときには、「いえ、 ビールの方を」と言えないこともある。
「あの、ボク、ジュースを・・・」と差し出されたビールを断ると、「男のくせに・ ・・」という言外の非難のまなざしにあうことだってあるだろう。
男、女ではなく、飲みたいものを、食べたいものを気兼ねなく食べたり飲んだりできる世の中、のはずではあるけれど。

職業選択の自由だって、ちゃんと保障されているはずなんだけれど、結婚・出産の時に、「で、仕事はどうするの?」と聞かれるのは女性だけ。
「当然、続けます」と答えると、「ご主人、大変」「子どもがかわいそう」といわ れるのも女性だけ。
「男は仕事」「女は家庭」が、まだまだ「日本の常識」だから。
入社試験で「で、結婚したら仕事は?」なんて質問を受けるのも、女性だけ。

 

 

 

 

 

 

 

6月25日

手料理  (カナコ)


朝のラジオ番組に、「昨日の110番」というコーナーがある。ユニークな110番通報や、最近問題となっている事件を、県警の係が毎日コメントしてくれるコーナーである。庭に蛇がいたとか、夫を泥棒と間違えたという話もあって、なかなか面白い。

2〜3日前の放送で、朝の110番通報には車の追突事故が多いという話題が出され、担当の警察官が、こんなコメントで締めくくった。
「朝、車を片手で運転しながらパンを食べたり、赤信号の時にペットボトルを飲んだりしてる男性をみかけますが、それは追突の大きな原因です。朝は5分早く起きて、奥さんの温かい手料理を食べて出勤された方が、ずっといい一日をスタートできるのではないかと思います」

この番組を聞いている夫婦の中で、「君、作る人。僕、食べる人」でいられるカップルはどれだけいただろうか。担当者の気持ちは分かるが、手料理で夫を送り出せる専業主婦は急速に減っているという現状認識に、やや欠ける発言。
共稼ぎの朝は戦闘状態なのだから、「夫は10分早く起きて、妻のパンも焼いてあげましょう」とでもコメントしてもらいたいところ。

メディアからのメッセージ力は、決して小さくない。社会を守る県警さんのコーナーだからこそ、社会の変化に敏感であってほしいのに……と、カーラジオ相手にグチっていたら、あやうく追突しそうになった。

 

 

 

 

 

 

7月6日

七夕   (カノコ)


明晩は、七夕。
願い事を書いた短冊が、しめった梅雨の風に揺れている。

天帝の怒りにふれて、天の川の西と東に引き離された牽牛(けんぎゅう)と織女(しょくじょ)が、一年に一度だけ、七月七日の夜に逢うことを許されるという中国の伝説が日本に伝わったのは奈良時代だといわれている。
奈良の都では七夕の宴が開かれ、七夕の歌を貴族たちは詠んだ。
その歌が「万葉集」に130首も残っている。

その歌のなかで、牽牛は天の川をわたって織女を訪ねていくことになっている。
しかし、本家の中国の詩ではすべて天の川をわたるのは着飾った織女だという。
逢いに行くのが中国では織女なのに、どうして日本では牽牛になってしまったか。

中国の婚姻は、女性が男性のもとに「嫁す」ものであった。だから逢いに行くのが織女。
ところが、奈良時代の日本は「妻問い婚」であり、その習俗を反映して、逢いに行くのが牽牛になった、と思われる。
聞いたばかりの舶来の伝説に感動し、歌を詠むときに、女と男が入れ替わってしまうのは、そのくらい自分の経験にひとが影響されるということだろう。

男が女のもとに通うという習慣のなかで生きていた万葉人たちにとって、川を渡るのは、牽牛でなければならなかったのだ。
「奥さんの温かい手料理」を当然として過ごしている「夫」は、「あたたかい手料理」を作る時間的余裕のない家庭を想像できない。
「お母さんがいつも食事を作っている」というのが当たり前だと思って育ってきた息子は、自分で家庭を持ったとき、食事の支度をするのは妻だと信じて疑わない。

ここで質問。
あなたは、牽牛が逢いに行くと思っていましたか?
それとも、織女が逢いに行くと思っていましたか?

ササに短冊を結びつけていた子どものころは、そんなこと、考えもしなかったことだけど。

 

 

 

 

 

 

 

7月7日

およめさん  (カナコ)


デパートの広場に、大きな笹飾りがゆれて、短冊には、かわいい願い事が並んでいる。
その中に何枚か、「およめさんになりたい」という短冊。それならば「おむこさんになりたい」というのが1枚でもないかと探したが、みつけることはできなかった。

友人の幼い娘は、一人で遊ぶ“およめさんごっこ”が大好きで、洗濯物が取りこまれると、その山にダッシュする。シーツがあれば御の字だが、なければバスタオルで十分。頭に腰にと巻きつけて、鏡の前でポーズを取る。
だから、「およめさんになりたい」という願いは、単に豪華なドレスへの憧れなのかというと、そうばかりでもない。「およめさんになったら、お料理作るの」とか「およめさんになったら、お買い物にいくの」という発言は、自立への心意気もないわけではないが、幼い彼女のイメージの中に、将来担わねばならない「主婦業」がしっかりと根をおろしていることは確か。

彼女が毎日何時間も見ているテレビCMに出てくるママは、次々と家事に励んでいる。そして、その作業が人生の幸せだと、微笑み続ける。
洗濯物が真っ白になることが、嬉しくてたまらないと頬ずりし、シチューやカレーがうまくできたからと、こぼれんばかりの笑顔。トイレの芳香剤がいい香りだからと、うっとり最高の表情を見せる。
幼い彼女は、まだ純真そのものだから、その画面に向かって、「ほんとにリアリティのない笑顔よねえ」とか、「あのCMは、きっとオトコばっかりで作っているのよ」 などという憎まれ口はきかない。

今日も“およめさんごっこ”に意欲を燃やす彼女に向かって、「あんたのママは、白い洗濯物見て幸せだって言う? アンタのママは、カレーに人生かけてる? 惑わされたらいかん。あんたのママが、本物なんやから」と、水を差す。
「イヤミなおばちゃん」と、うっとおしがられてもめげない。いつかきっと、彼女もイヤミなおばちゃんの心がわかる日がくるんだから。

 

 

 

 

 

 

 

7月8日

花嫁御寮   (カノコ)


「お嫁さんになりたい」というのが「夢」になったのは、けっこう新しいことなのではないだろうか。
谷崎潤一郎の『細雪』で、縁談のととのった雪子が婚礼が近づくにつれ、「その日その日の過ぎていくのが悲しまれた」とある。
その姉の婚礼の時も、姉の幸子は妹たちに聞かれて「嬉しいことも何ともない」といっている。

「年頃」になった娘は、「嫁」にいくしかなかった時代。
女性が自活の手段を持たなかった時代には、「結婚」という手段でしか、生きていく方法はなかった。
娘たちは、「結婚式」のその向こうに、どんな日々が待っているかを知っていたから、結婚を手放しで喜ぶことはなかった。

  ♪金襴緞子の 帯しめながら
  ♪花嫁御寮は なぜなくのだらう
  ♪文金島田に 髪結ひながら
  ♪花嫁御寮は なぜなくのだらう   (蕗谷虹児 作)

文金島田の向こうにあるのは、「家」であった。
「家」のために働き、「家」のために子どもを産まねばならないのが、彼女の明日であった。
「娘」時代にはまだ少しはあった「自由」は、「嫁」にはない。
それを知って、娘たちは、幸せなはずの婚礼を前に「泣いた」。

「およめさんになりたい」という幼女の短冊が、ササに飾られる時代は、女性にとっていい時代なのかもしれない。
しかし、「結婚適齢期」(といわれる20〜30代)の女性は「結婚はしたい」といいつつ、なかなか結婚しない。
「少子化」に危機意識を抱く人たちは、彼女たちを「結婚」に駆り立てようと必死だが、なかなか「婚姻率」は上がらず、下がる一方である。

すてきなドレスのその向こうの日々がどんなものか娘たちは気付いている。
日本の社会では家族に対する「ケアワーク」をすべて女性に、特に結婚した女性に押しつけてきた。
ケアとは、他者のためにする行為。
他者のために生きることでしか自己実現ができないという大きな矛盾を抱えている。
自分のために生きようとすると、十分なケアワークができなくなるのは当然である。

夫のための手料理。
子どものための洗濯。
家族のためのトイレ掃除。
老親のためのおむつかえ。
他者のための営みのくりかえしの日々を「喜び」にせよ、という期待に応えることは、「自分」を生きる喜びを知ったものにはむつかしい。

幼女は、少女になり、そして娘になり、世の中がもう少しわかるようになって も、「およめさんになりたい」という短冊を飾るだろうか。