7月16日

ますます暑い  (カナコ)


家族にクーラー嫌いがいるため、暑さ寒さに根性のない私は、このところ動物園のシロクマ状態。表情もうつろに、あえいでいる。
何も手につかないのだから、テレビでもかけていないと間が持たない。
ところが、画面の中では、暑さの増すようなセリフばかりが繰り返される。

堺正章氏の料理番組に、ゲストで中尾ミエ氏が出ていた。二人の会話。
堺 「私たち、けっこう気が合いますねえ」
中尾「そうよ。二人で暮らしたら、楽しいと思うよ」
堺 「じゃあアナタが、僕の面倒をみてくれるわけ?」
中尾「みるわけないでしょ!」
堺 「だったら、一緒に暮らす意味、ないじゃん」
中尾「その方が、生きるハリがあるのよ」
堺正章氏が、妻からリストラされた理由が納得できた気がした。「一緒に暮らす=僕の面倒をみる」という発想には、ため息・・・。

そして、桂三枝氏の新婚さんトーク番組。ゲストのカップルが入場して椅子にかけた時、彼が新婚さんの「夫」に、真っ先にかけた言葉。
「ちょっと御主人、足が“内股”でっせ。アンタは御主人なんやから、しっかり足開いて座りなはれ!」
はてさて、何で夫は“足開いて”座らにゃいかんのか。

間もなく画面は、はみがき「クリアクリーン」のCM。
「家族の歯を虫歯から守るのは、おかあさん、あなたです」
自分の歯くらい、自分で守れよ!

次から次へと・・・で、ますます暑くなってしまう。精神衛生にも悪いので、スイッチを切ろうとリモコンに手を伸ばしたら、そこでシャンプー「メリット」のCM。
「赤ちゃんは、夏は頭まで汗をかく」という会話を、若い夫婦が交わしている。そして最後の一言。
「夏こそ、“親”が気をつけて、頭を洗ってやらなきゃね」
赤ちゃんの頭を洗うのは、“お母さん”ではなかった! やっとホッとして、心穏やかにスイッチを切ることができた。
それにしても、メデイアからもう少し『さわやかな風』が吹いてくると、シロクマも生きかえることができるのに・・・。

 

 

 

 

 

 

 

7月27日

子どもの数   (カノコ)


「少子化」はとどまるところを知らず、昨年の合計特殊出生率は1.33だと発表された。
今までは「少子化」の原因は「晩婚化」「未婚化」にあり、結婚したカップルは2人以上の子どもを生んでいる、とされてきた。ところが結婚したカップルの子どもの数も減ってきている、との分析が今回はあった。
実際の数はいざ知らず、きっとそうなんだろうな、と私はテレビを見て思っていた。
テレビのCMに「家族」が登場する場面、定番のように、「お父さん」+「お母さん」 +「女の子」+「男の子」だったのが、最近変わってきているのだ。
「お父さん」+「お母さん」+「子ども」という「家族」が増えてきている。

清涼飲料水・禁煙のガム・家・クーラー・宅急便等々
あらゆる分野にわたって、子どもをひとりしか登場させないCMが増えてきた。
「1.33」を実感するのは、こういうときだ。
夫婦と子ども2人、という「標準家族」が、「標準」でなくなってきている、という ことを、CM業界は敏感にキャッチしている。

さまざまな分析のもとになっている「標準家族」。妻は「専業主婦」、とされて いる。
働いている妻が5割を超えていても、基準はあくまで「専業主婦」。
若くて、結婚していそうにない女性たちは、CMのなかでも働いている。疲れて「栄養ドリンク」を飲んだりしている。
しかし、結婚しているとおぼしき女性たちは、エプロンを掛け、家の中で、家事をしている。

「家族の歯を虫歯から守るのは、おかあさん、あなたです」と呼びかけられ、家族の真っ白な洗濯物に顔を埋め、今夜の献立に頭を悩ます。
「あなた、がんばってね」と栄養ドリンクを差し出していたマルちゃんの妻は、今は夫と一緒にロケットに乗って働きに出ていくが、以前、横に立って一緒に呼びかけていた子どもはどうしているのだろう・・・
幼児を保育園に預けて勤めに行くのに、あんなにさっそうとは出かけられない。
「勤めを持つ母」はまだCM界では認知されていないのか、と思っていたら、最近保険会社に登場してきた。

「別の人生もあったと思う」とつぶやく3パターンのうち、ひとりが女性。
彼女の今の仕事を紹介したあと、簡単にコメントが付け加えられる。「娘と二人暮ら し」。
「標準」家族だけが家族ではない。

現実に、さまざまな形の家族がいて、それぞれがそれぞれの暮らしを生きている。
テレビに出てくるのが、どれも「お父さん」+「お母さん=専業主婦」+「女の子」+「男の子」であるとしたらそうでない家族は自分たちが「標準」でない、という思いを感じるのではないだろうか。
視聴者の感覚と離れてしまえば、CMはその意義を失ってしまう。
CMの家族の変化は、現実の家族の変化をうつしている。
たかがCM。されどCM。

 

 

 

 

 

 

 

8月11日

樋口一葉   (カノコ)


新しい5000円札は樋口一葉になるそうだ。
お札の顔が男性ばっかりなのは、「男女共同参画社会」にふさわしくないとかで「女性」が登場したのだそうだ。
戦前、神功皇后のお札があったそうだが、戦後では初めて。明治時代の小説家である。
こんなにお金で苦労した彼女が「お札」だなんて、何か皮肉のようだが、それは野口英世でも同じ。
明治の女性の文学者、というなら、より有名な与謝野晶子の方がふさわしいのに、という声もある。

たしかに知名度は与謝野晶子の方が上だろう。
が、私は晶子ではなく一葉の方が「男女共同参画社会」にはふさわしいと思う。
(それにしても、この二人以外には候補さえいない、というところが「近代日本」の現状であるが)
なぜなら、歌人として名をなした上に、妻として母としても(つまり「日本のあるべき女の姿」をも)生きた晶子の対局にいるのが一葉だからだ。
24歳で死んだ、ということはあるにせよ、一葉は結婚もしなかったし、子どもも持たなかった。
「娘→妻→母→姑」というコースを外れた女性だったのだ。

様々な事情から、彼女は16歳の時「家督相続」をし、「樋口家の戸主」となっ た。
「父→夫→息子」に従って生きるのが女のあるべき姿である時代に、「戸主」として一家を担う責任を負ったのである。
だからといって女が自由になんか生きられないのが「明治」という時代。
女の子には学問はいらない、と小学校を中退させられ、好きな男ができても、「家名が」「世間の笑いものに」とあきらめ、貧乏と病気まで背負いながら、いくつかの作品を残して死んでいった人である。
やむを得ず「女」としてより「個」として生きることを強いられ、しかも「女らしく あれ」と縛られて・・・。

一葉が死んだのは1896(明治29)年。前年に発表した『たけくらべ』が激賞さ れ、いよいよ、というときであった。
「我れは女なり。いかにおもへることあろうとも、そは世に行うべき事か、あらぬか」
「女であること」の苦しみを生き、書き残した彼女を手に、現代の女たちは何を購うのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

8月12日

二流国民  (カナコ)


樋口一葉の話で、明治時代の「男女」の生き方に思いを馳せた。
明治時代は厳然たる男尊女卑。女性のみに姦通罪が適用され、女性は夫の許可なくしては財産も持てなかった。
これは、江戸時代の武家文化の中で発展してきた家父長制が、明治になって一挙に大衆化したのだろうけれど、江戸時代の男尊女卑と明治のそれとでは、やや状況が異なる。

江戸時代までは厳然とした身分制がしかれていたから、“武家の女性”と“町民の男性”では、武家の女性のほうが上であった。男女という分け方よりも、身分の違いの方がはるかに大きな力を持っていたからである。
しかし明治になって、表向きは「平等」となったはずなのに、実際には、男女の格差が強調されてしまう。
この原因は、「国民皆兵」にあるのではないかと、伊藤公雄氏は言う。

「国民皆兵」という言葉は、そもそもおかしい。「国民の全てが兵」という意味であるはずなのに、国民の半分である女性は、兵にはなっていない。
・・・ということは、女性は「国民」ではないということになる。
国民とは、「成人した男性で、しかも戦いに行ける体力を持っているもの」を指していて、女・子どもや高齢者、そして障害を持っている人たちは、言うなれば「二流国民」なのである。

これは、「遠い明治の時代の話」・・・ならばいいのだが、もしかすると「遠い話」でなくなるかもしれない。
秋の臨時国会では、いよいよ有事法制が議論される。すでに“自衛隊の動向を、マスコミなどに公開しないという法律”や、“必要と判断された時には、どんな場所でも 否応なしに自衛隊が使えるという法律”は国会を通っていて、巷では「次は、国民皆兵?」という声も聞こえてくる。
平成の国民には、当然?女性も含まれるだろうから、「それこそ男女平等!」となるのかもしれない。

しかし、戦いに女性も参加することが、「平等」なのだろうか。その戦いを始めないために、男女がともに考えるという方向には、どうして動かないものなのか・・・。

 

 

 

 

 

 

 

8月18日

他人事   (カノコ)


「徴兵」されるのは、自分の「息子」か「兄弟」か「夫」だとは思っても、「自分」だとは思わない。
「性別役割分業」の意識は、私たちの中にしっかりと根付いている。
(「国策」として進められる「男女共同参画社会」は、もしかしたら「女性も当然 戦場に行く」ための布石なのかもしれない。)

一枚のチラシが配られた。「この面を壁などにはり、実行しましょう」とある。 「リサイクリング運動」の啓発チラシである。
ごみを減らそう、再使用しよう、再生しよう、という呼びかけはどれも当然で、大切なことである。
しかし、そのチラシに描かれている人物5人すべてが女性なのはどうしてだろう。

「ごみダイエット」について考えたり、実践したりするのは、当然「女性」であるとこのチラシを作った人が思っているからではないか。
実情を考えた上でそうしたのならまだいい。
何も意識せずに、「ごみ=女性」と思いこんで作った・・・・
そして、このチラシを依頼した行政職員も、なんの疑問も感じずに印刷にまわし、各戸に配布した・・・各戸で家庭にはられたチラシを見て、家族の成員は、「ごみ=女性」なんだ、という刷込みを日々受けることになる・・・

「ごみ」を受け持つのは、自分の「母」か「妻」か「姉妹」か「娘」だとは思っても、「自分」だとは思わない。
「性別役割分業」の意識は、私たちの中にしっかり根付いていて、その意識は日々強化されていく。

《ごみ問題は、今は他人事ではありません。あなた自身の問題です。》
と、チラシにはあるが、呼びかけられている「あなた」は、それぞれの家庭の女性たちのようだ。
男性にとって、「家庭のごみ・不要品」はあくまで「他人事」

 

 

 

 

 

 

 

8月20日

これも他人事  (カナコ)


女性センターの情報棚に、一枚のパンフがある。「ボランテイア をしましょう」という呼びかけの大判冊子。
ボランテイアの呼びかけは、ぜひぜひ行ってもらいたいものである。しかし、そのパンフレットの表紙に描かれているイラストは、“空き缶を拾っている子ども”、“歌唱指導をしている若い女性”、“子育てを手伝っている女性”、“花を植えているシニア女性”、“手品を教えているシニア男性”。
5つの場面に、成人男性の姿はない。

今までボランテイアにかかわってきた人たちの多くは、このイラストのように、専業主婦・子ども・高齢者であった。だから行政は、特に何の意識もせずに、ボランテイア=専業主婦・子ども・高齢者と思いこんで、こんなイラストを作ったのだろう。
しかし、行政が発行するパンフレットやチラシは、市民への大きなメッセージ。その中でも、表紙の持つメッセージ性は大きい。これでは、成人男性がこのパンフレットを見て、「ボランテイアは自分にはかかわりのないこと」と思ったとしても、彼ばかりを責められない。

確かに従来の働き方では、成人男性が余暇をボランテイアにあてることは無理だっ た。だが、そんな生き方に疑問が持たれ始めている。
仕事だけで人生を送った男性たちが、定年後になって初めて地域に入ることの難しさを、身を持って感じ始めている。
ボランテイアは、成人男性にとって、決して「他人事」ではない。

今まで当然と思いこんでいた「性別・年齢別役割分業社会」の見直しは、行政の大切な仕事。だからこそ、チラシやパンフレットには十分気を配ってほしい。そして、その気配りをしっかりと確かめていくのが、私たち市民の仕事。
あなたの街は大丈夫?

 

 

 

 

 

 

 

8月29日

オヤジ   (カノコ)


社会学者、上野千鶴子の定義によれば、「オヤジ」とは、
「面の皮と財布が厚く、現状の社会から既得権を得ている人」である。
だから、オヤジかどうかには年齢も性別も関係ない(財布が薄いのはオヤジではなく、オヤジからドロップアウトした人)。
若くてもミニ・オヤジはいるし、女オヤジもいるという。
現状からいい目を見ている彼らは、だから当然現状を変えたいとは思わない。

「女が出しゃばるから、世の中が悪くなる」
「きちんと家で子育てをしないから、変な子どもが出てくるんだ」
「女性差別撤廃条約は日本文化の生態系を破壊する」
「男女共同参画社会基本法は日本の伝統文化を破壊する」

いくら現状にしがみついていようと、その現状が大きく変ってきている。変らな いとやっていけないような時代になってきている。
が、日本の夫の家事労働時間は1970年代に1日26分。25年たっても同じ26分。
男は組織の中で朝から晩まで働くものだ、というスタイルを維持したまま。
が、全身全霊を捧げ、家庭生活をなげうってまでつくしても、「会社」は彼を手厚くは扱ってくれない時代になってしまった。
「オヤジ」への道をひたすら走っていたのに、ゴールがなくなってしまったようなものである。

ボランティアの場面に成人男性の姿がないのは、彼らライフスタイルからは当然のことだ。
「家庭生活」さえ営む余裕のない彼らに、会社以外の「社会生活」を省みる余裕などない。
(そういう人に限って、「青少年にボランティア活動を!」といっているのだが)

「カネ」にならない活動には興味がないオヤジたちは当然ボランティア活動などやらない。
その上、ボランティア活動を自分たち以外の人にやらせようとする。
活動に意義を見いだしているからではない。タダで使えて便利だ、と思っているからだ。

「オヤジがボランティア活動に参加する日」が来れば、世の中は変るのではないだろうか。
そういえば、現在選挙中の田中康夫氏は、阪神淡路大震災のとき、震災2日後に神戸に入り、原付バイクにまたがって水や物資を配りはじめたという。
既得権の中でぬくぬくしていては見えないもの、わからないこと、それに気付く経験は、現状の中にいるだけではできはしない。