2月9日
チョコの日   (カノコ)

小鳥のさえずりのトーンが高くなり、ネコがせつなく鳴き、そろそろ春。
お店はどこもバレンタイン一色。
長引く不況で、チョコレート全体の売り上げが落ち込むなか、一粒250円のチョコレートが飛ぶように売れているという。

そういう高いチョコレートは、「本命の彼」に贈るために買う、のではないらしい。
プレゼントではなく、自分で2,3粒の幸せを食べたいからといって、自分用に女性たちが買うのだという。
一粒250円のチョコレートを売るショップの店員はいう。
「頑張って働く自分へのご褒美では。何万円の服より、250円のチョコの方が、手の届きやすい幸せなんです。」
一番高くて、おいしそうなチョコ」は、自分用、という女性が増えているらしい。
そして、欲しいものは自分で稼いだお金で買う。

"バレンタインにチョコを贈る"という習慣の発端をお菓子会社が作ったのが1958年なのだそうだ。
それがじわじわと広まり、「女性から告白できる日」としてもてはやされ、(けなされ)、そして、チョコは再び自分のためのものになった。

1989年に出た辞典はバレンタインデーをこう説明している。
「3世紀頃殉教したローマのキリスト教徒聖バレンタインを記念する祭日。2月14日。この日には、女性の方から思いを寄せている男性に、贈り物やカードを送ってもよいとされている。」
「この日には・・・てもよい」、つまり、他の日には女性から告白するなんてことは考えられない、というのだろう。
が、日常的に女性たちは自分から告白をするようになってきた今、とりたてて、この日を待ってチョコとともに思いを告げようというひとは減ってしまったらしい。

さほど変わらないようでいて、世の中は、たしかに変わっているのだ、と思うのは、こういうとき。
そういえば、25年前には、新幹線の禁煙車両は、こだまの自由席に一両あるだけだったという。
「嫌煙権」をいう人は「変人」扱いされていたころ。
今や、新幹線の車両の半分以上が禁煙車。
世の中の「常識」が、大人の男性でだけ作られた時代は、はっきり終わろうとしている。

 

 

 

 

 

 

 

2月15日
合コン  (カナコ)

県内の某有名結婚式場の調査によれば、7年前のデータでは85%の結婚式に“仲人”があったけれど、今、85%のカップルが“仲人”なしの式・ 披露宴を行なうという。

戦前は7割をしめていた“見合い結婚”が、5割を切って、その座を“恋愛結婚”に取って代わられたのは40年前。そして、年々その割合は減り続けて、現在は1割を大きく下回っている。
それなのに、つい最近まで、“仲人”という伝統のしっぽだけはしっかりと残り、式の当日だけの“頼まれ仲人”という新たなジャンルが出現したりしていた。

しかし、やはり時代は、若者文化から変わり始める。
多分、どこかの式場の片隅から起こった「形ばかりの仲人が、どうして必要?」という疑問の声が、わずか数年の間にここまで市民権を得てきたのは、『新世紀』という 節目があったからかもしれない。
“形ばかりの仲人”を切り捨てた若者たちは、結婚式だけ急ごしらえの「神道」や「キリスト教」になることにも疑問を持ち始め、無宗教の“人前婚”が主流になりつつある。さらに披露宴も、“○○家の親類縁者”から“友人たち”へと、メンバー構成が大きく変化している。

“お見合い”が主流でなくなったあと、一時、若者たちは出会いの場を失って、とまどっていた。しかし彼らは、『合コン』という、きわめて自主的な“集団出会いの場”を作り始めた。その場では、女性は決して「選ばれる側の性」ではない。
まさに、世の中の「常識」が、大人の男性でだけ作られた時代は、はっきり終わろうとしている。

 

 

 

 

 

 

 

3月3日
桃の節句に   (カノコ)

「男女共同参画」を叫ぶ輩は、伝統行事である、「桃の節供」を も否定している!
と、非難する人々がいる。
「女らしさ」を否定し、おひな様を飾ることもけしからんことだ、というと。

おひな様を飾り、ちらし寿司や潮汁をいただくことを否定などしていない。
飾りたい人が飾り、飾りたくない人や、飾れない人が、「女のくせに」と、非難されない世の中になってほしいだけ。

年に5回ある「節供」のうち、3月が「女の子のお祭り」として限定されたのは、 江戸時代ごろ。
今でも鳥取に残る流し雛の風習のように、奇数の重なる「重陽」の日に、身体の汚れを払い、無事を祈る儀式だったという。
昭和30年代まで、岐阜の山間部では、まだ桃の節句の「がんどうち」の風習が残っていた。
「おひなさま、見せとくれ」と、子どもたちは集落を回る。子どもが訪ねた家の人たちは、子どもたちが持っている袋に、お菓子を入れて帰したのだという。
まだ、生活が豊かでなかった当時、袋いっぱいのお菓子は魅力的で、子どもたちは遠くまで訪ねていったそうだ。

「がんどうち」と呼ばれたこの行事が、実は「強盗打ち」のことであると知った ときには驚いた。
"3月節供に女の子たちが、野外に臨時の竈を設けて煮炊きして飲食しているところへ男の子たちが行って食物を強要すること。後には雛を祭る家々を回り、雛を見せて もらってから菓子をもらうことをいう。"(国語大辞典)

埼玉県には、「おひなげえ」(おひな粥)といって、河原で炉を作り、粥を作っ て食べる風習が残っている地区があるそうだ。
どれも、本来、子どもたちが自分たちですべてを差配する行事。
が、ある年「知らないうちまで行ってお菓子を強要することはケシカラン」という小学校の校長の「決断」で、岐阜のある集落の「がんどうち」は禁止されてしまったそうだ。

季節の行事は、その時代を生きる人々によって、担われ、受け継がれていく。
人々の意識が変われば、当然行事も変わってくる。
「おひなさまを急いで片付けないと娘が"嫁き遅れ"になる」と、あわてて片付ける家庭は、今、どのくらいあるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

3月9日
世帯主  (カナコ)

半年ほど前に結婚した友人の表情が、最近やや冴えない。
彼女は、“嫁き遅れ”を心配してお雛様を早々と片付けていた母親からの、“寿退職こそが女の幸せ”というメッセージを振り切って、共稼ぎを選んでいた。生活費の分担も2人でしっかりと話し合って、着実な毎日を送っている彼女に、何があったのか。

パートナーとの協働は何も問題ないが、冴えない顔色の原因は、携帯電話の契約のために取った住民票。
2人ともほとんど変わらない収入があり、家事もうまく分担して暮らしているのに、住民票の世帯主欄には夫の名前がしっかりと書かれている現実を前にして、複雑な思いがぬぐえないと言う。単なる便宜上とはいえ、妻の、あたかも付属物のような記載には納得できない・・・と。

半ばあきらめの表情で、彼女はつぶやく。
「半年前の婚姻届の時も、気になってたの。彼の姓にしたから、戸籍の筆頭者は夫になるでしょ? だから夫の名前を書かないと、自分の抄本も取れないのよね。何か、2人が“主”と“従”みたいで・・・。戸籍はあまり見ることもないから、仕方がないかなと思っていけど、住民表は生活に密着してて、色々な届にはいつも“世帯主” の欄があるのよね。それを見るたびに、何となく割り切れなくて・・・」

しかし、夫婦単位・世帯単位の登録方法にも、意識の変化は確実に起きてきている。
まず戸籍。夫婦別姓での結婚は、まだ法制化はされていないが、その形を選んでいるカップルは年々確実に増えている。子どもの担任に「うちは、別姓なので、父親と子どもの姓が違います」と報告しても、奇異な目で見られることはなくなった。
そして住民票。税金が、個人単位に移行せざるをえなくなったこともあって、世帯単位は形骸化しつつある。
例えば、夫婦が世帯分離をすれば、“同じ住所”で、“それぞれが世帯主”の住民票ができるし、そのことで何の支障もない。晴れて2人は、共に“世帯主”になれる。 手続きは至って簡単。役所に“住民移動届”を一枚提出するだけで、何の条件も要らない。もちろん専業主婦も可。(ただ、国民保険の場合だけは、世帯単位で計算されるため保険料がアップしてしまうが)

「夫婦でワンセット・家族はひとくくり」にしておいてほしいと願うのは個々の自由だが、「夫婦でワンセット・家族はひとくくり」でなければ生活できないと考えてしまうのは、単に私たちの思い込み。
社会が変わり、意識にも大きな変化が起こり始めた今、システムも法律も、やっとそれを追いかけようとしている。

 

 

 

 

 

 

 

3月22日
一つだけの花   (カノコ)

「保護者名」を書くとき、一瞬のためらいがある。
子どもにとっての保護者はふたおやなのだから、私の名を書けばいい。
でも、ここはやっぱり「世帯主」であり、「戸籍筆頭者」である父親の名前を書くべきだろうか。
逡巡のあと、結局は父の名前を書いて、印鑑を捺す。
これって、有印私文書偽造?

ふつうは、父親の名を書くものだから、父親がいない子は母親の名を書くものだから、とだれが決めたのでもない「規則」になんとなく従って。
「ご父兄」という言葉をおかしいと思いながら、自分の意識の中にも、しっかり「父兄」が根付いている。
子どもに責任を持つのは、まず「父」。父がいない場合は、「兄」。どんなに小さい「兄」であっても、「兄」が家督を相続している以上、それは兄の責任である。
母、は産み、育てる存在であって、対社会的な責任を担えるような存在ではない、という明治民法なんて、生まれたときにはすっかりなかったはずなのに。

だって、保護者の一覧表(役員決め用の)に、父がいるのに母の名は、他の人と違ってしまうから。
ふつうは、父の名を書くものだから。
母の名をわざわざ書いたりしたら、「変な人」と思われるから。

スマップの歌が流れてくる。
♪それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?♪

当たり前のことを、くり返しいっているだけの単純な歌なのに、どうしてこんな に好きな人が多いのか。
これが当たり前だ、とみんなが思ってやっている社会なら、はやらない歌なのかもしれない。
そう思いたくても、なかなか思えない。
そうありたいと願っても、二の足を踏む自分がいる。
だからこその歌・・・?

♪小さい花や 大きな花 一つとして 同じものはないから
  ♪NO.1にならなくてもいい もともと 特別な Only one ♪